写真提供:共同通信社

 ホンダF1を30年ぶりの優勝へ導き、F1最強のパワーユニット開発の指揮を執った元ホンダ技術者・浅木泰昭氏。大きな危機に幾度も直面しながらも、オデッセイのヒット、大人気軽ワゴンN-BOXの開発など数多くの成功を収めてきた。本連載では、『危機を乗り越える力 ホンダF1を世界一に導いた技術者のどん底からの挑戦』(浅木泰昭著/集英社インターナショナル)から内容の一部を抜粋・再編集し、稀代の名エンジニア・浅木氏が、危機を乗り越えて成功をつかむ過程を追う。

 今回は、入社2年目で配属されたF1エンジンテスト部門での日々と、本田宗一郎氏との思い出を振り返る。

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2024年8月9日)※内容は掲載当時のもの

 こうして入社から1年後の1982年、私はF1エンジンのテスト部門に配属されました。テスト部門といってもメンバーは上司と私のふたりだけ。あとは設計部門もありましたが、そのほとんどがF2とかけ持ちをしている状態でした。

 最初のF1エンジンはすごくいい加減なものでした。簡単にいえば、F1のレギュレーションに合わせるために、F2用のV型6気筒の2リッターエンジンをF1用のV型6気筒の1.5リッターターボエンジンに改造したもので、シリンダー内側の直径(ボア)はそのままでピストンが往復運動をする距離(ストローク)だけを短くし、それにターボチャージャーをくっつけただけの代物(しろもの)でした。

 そうなると当然、エンジン内で異常燃焼が原因で異音や振動を発生するノッキングが起こり、ピストンが溶けるなどのトラブルが続出します。私の仕事はエンジンをテストして、トラブルの原因を探ることでした。当時の私は入社して1年余りの素人でしたが、何度もテストを繰り返してみると、ホンダのエンジンがF1の排気量に見合った設計ではないことは明らかにわかりました。

 今にして思えば、そんなことは当時のF1開発チームのリーダーたちもわかっていたと思います。でもF1専用のエンジンをいちからつくろうとすれば、エンジンの骨格から設計をし直さなければなりません。当然、お金と時間がかかるので、とにかく1.5リッターのV6ターボエンジンをつくって既成事実として見せてしまえばF1活動をスタートさせられる――。

 そういう発想だったのだと思いますが、入社2年目の私はそんな事情まで頭が回るはずもありません。こんなエンジンじゃ、とてもF1で勝てないと設計部門の上司に文句を言いに行きました。

「こんなボアのサイズじゃ、いくらなんでもいびつすぎます。壊れるのは当たり前です。ボアのサイズを小さくしてください」

 普通、入社して間もない20代前半の若者が上司に対して面と向かってそんな強い口調で文句は言いません。上司からしたら面倒くさいヤツだったでしょう。私の言っていることは技術的には間違っていませんでしたが、まるで上司を上司とも思わないような態度でした。ただの生意気で変なヤツだったんです。

 その上司も、最初は「この若造が何を言っているんだ」と思っていたかもしれませんが、当時23~24歳の生意気な部下を毎晩、飲みに連れて行ってくれました。研究所のある和光の周辺はあまり飲み屋がなかったので、よく成増(なります)(東京都板橋区)の焼き鳥屋に行って、生意気を言いやがってと頭を小突かれ、説教されました。

 それでも「こんなボアだから壊れるんです」「勝たないとダメなんです」と先輩とエンジニア談義を重ねる。そういうことが週6回ということもありました。

本田宗一郎さんとの思い出

 私はF1プロジェクトの社内公募に手を挙げましたが、実はモータースポーツにはそれほど詳しくありませんでした。私は第2期の活動で、ケケ・ロズベルグ選手、ナイジェル・マンセル選手、ネルソン・ピケ選手といったチャンピオンドライバーたちがドライブするエンジンの開発に携わりました。

 当時、のちに1987年にイギリスのロータスからデビューを果たし、日本人初のレギュラーF1ドライバーとなる中嶋悟(なかじまさとる)選手がホンダのテストドライバーを務めていたので、そのエンジン開発もしていました。当時からモータースポーツの世界で一流と呼ばれるドライバーたちと一緒に仕事ができましたが、そのこと自体に感激したり、彼らに臆(おく)したりということはありませんでした。

 私はレースではなく、技術が好きなんです。その意味では、技術開発競争の最高峰といえるF1に関わることができて本当に楽しかったですし、充実した日々を過ごせました。私の青春時代です。

 エンジン開発の忘れられない思い出といえば、エンジンの熱で自分の身体が焼ける匂いです。上司からは「今日はこれだけの内容のテストをしろ」といった指示が出されるのですが、ほかにも自分でやりたいテストがあるので、とにかく上司に言われたことを早く終わらせて自分の時間をつくっていました。

 時間短縮のためには素早く作業を行わなければなりませんが、ターボエンジンは相当な熱を持ち、排気系の部品は1000度近い高温にさらされます。テストベンチ(研究所内でエンジンに使用する部品などの性能をチェックする設備)にエンジンを載せたり降ろしたりする作業は慎重さが求められるので、作業を早めて時間をつくることは簡単ではありません。

 特にターボチャージャーはテストが終わった後もしばらくは熱を持っていて、熱で膨張した金属が冷えるときにはチンチンチンという音がします。慌てて作業をしているときに誤って高温のターボに手首や手の甲が当たってしまうことが何度かありました。やけどをすると水ぶくれになることがありますが、数百度ぐらいの高温になると水ぶくれもできません。焼き印のようになります。ジュッと音がして、ステーキの肉が焼けるような、いい匂いがします。この匂いは今でも忘れられません。

 ホンダの創業者、本田宗一郎さんと間近で接することができたのも第2期F1時代のいい思い出です。宗一郎さんは1983年に会社の取締役を退任しています。宗一郎さんと実際に接したことがあるのは、われわれの世代が最後かもしれません。

 あるとき突然、私と上司が作業しているテストベンチのところにふらっとおじさんが現れました。「誰だろう?」と最初は思ったのですが、周囲には会社のお偉いさんがぞろぞろと何人もいたので、「この人が本田宗一郎さんだ」とピンときました。

 当時の私は、もちろん本田宗一郎さんのことは知っていましたが、実際に対面したことや話したことはなかったので、この人が宗一郎さんなのかどうかがよくわからなかったのです。宗一郎さんは、突然、私たちのもとに現れて、私の上司に「F1をやっているんだってな。俺が金をもらいたいぐらいだよ」と言って、手を差し出しました。もちろん宗一郎さんの冗談だと思いますが、私の上司は会社の創業者から差し出された手に戸惑い、困惑した表情を浮かべていたのを覚えています。

 宗一郎さんは自分でもF1をやりたかったはずで、「F1は楽しいだろう。お前たちは俺にお金を払ってもいいぐらい、すごく貴重な体験をしているんだぞ」と言いたかったんだと私は解釈しました。そのとき宗一郎さんがテスト部門にいたのは10分ぐらいだったと記憶していますが、私が彼の肉声を間近で聞いたのは、それが最初で最後でした。