かつて世界最高峰の技術力と品質を誇った日本の製造業は、1990年代以降、欧米・アジアのグローバル企業との競争の中で、急速にその勢いを失っていく。その背景にあったのが知財戦略の大転換だと語るのが、『戦略コンサルが知らない 最強の知財経営』(日経BP)の著者、野村総合研究所 プリンシパル グローバル製造業コンサルティング部の林力一氏である。失われた30年の間に、知的財産をめぐる戦い方はどう変わったのか。知財は競争から身を守るものという認識が根強い中、日本企業が知財を「攻めの武器」に変えるために何が必要か。同氏に聞いた。
知財戦略の転換期となったIBMの新たな収益化モデル
──「失われた30年」とは、日本が知財戦略で敗れた30年であると著書で指摘されています。この30年間で、知的財産を巡る戦い方はどう変わったのでしょうか。
林 力一氏(以下敬称略) ご存じのように戦後日本の製造業は、欧米諸国から学んだ技術を独自に発展させて低価格で品質の良い製品を生み出し、それを輸出することで大きな成功を納めました。特に1980年代までの日本の製造業は、コストと品質において世界でも圧倒的な強さを誇っていました。
大きな転機が訪れたのは1990年代でした。私の印象に残っているのは当時、破綻寸前にまで追い込まれた米IBMが、知財戦略をベースに再生を遂げたことです。その頃、私は日立製作所でメインフレーム関連の仕事に携わっていたのですが、IBMは日立や富士通といった日本企業に大きく後れを取り、収益性が大幅に悪化していました。しかしその一方で、同社は豊富な知的財産を持っていました。RJRナビスコからIBMに移ってCEOに就任し、経営改革を断行したルイス・ガースナー氏は、当面の収益を確保する手段として、特許やノウハウなどの知財の売却やライセンス化を進め、危機を脱した2000年頃、IBMの知財による収益は約2000億円にも上ったといわれます。
林 ここからは私の推測ですが、この時ガースナー氏は「知財とはこんなにも儲かるのか」と、その収益力の高さに気づき、知財を継続的に収益化できる体制を築こうとしたのだと思います。実際、同氏は収益化を推進するために、いち早く1000人規模の知財営業部隊を立ち上げています。
ここで興味深いのは、IBMが提供し始めた知財は、競合他社が欲しがる技術ではなく、バリューチェーンの上流や下流に当たるパートナー企業の事業を支援するような技術が中心だったということです。しかも知財を高く売るのではなく、無償や低料金で提供することで、その企業を自社のエコシステムに取り込んでいきました。新しい知財活用の潮流を示す象徴的な事業展開で、これを私は「攻めのオープンな知財戦略」と呼んでいます。
──「攻めのオープンな知財戦略」について、具体的にどのような事例がありますか。
林 IBMが提供している「サーバーの省エネルギー管理サービス」はその典型的な事例と言えます。このサービスでは、サーバーの省エネ化を図るため太陽光パネルを活用しているのですが、同社はパネルの製造コストを下げるため、この分野で優れたコスト削減能力を持つ外部企業に対して、自社の設計技術や仕様などの知財をオープン化して提供しました。その知財を基に太陽光パネルを製造させています。
つまり、知財を売って儲ける発想ではなく、知財を活用して、製造コストを劇的に下げられる外部企業を自社のエコシステムに取り込み、自社だけでは実現できなかったソリューションを生み出していくという発想です。
攻めのオープンな知財戦略はIBMだけでなく、GAFAMをはじめとする多くの欧米企業に広がり、現在のグローバル企業のビジネスモデルにおいて主流となっています。例えば、AI向けのGPUで近年目覚ましい成長を遂げている米半導体大手のエヌビディアも、「攻めのオープンな知財戦略」の実践企業と言えます。
エヌビディアの顧客は、同社のGPUを購入すると、自社で使えるようにソフトウエア環境を整備する必要があります。実はエヌビディアは、ハードウエアである半導体の技術だけでなく、ソフトウエア分野でも強みを持っています。
実際、GPUを購入した顧客に対し、同社の知財技術を用いてソフトウエア環境を整備し、業務支援していて、これが非常に需要の高いサービスになっています。技術・知財を用いることで、顧客企業との継続的な取引が期待でき、本業の半導体も売れ続けます。また、技術と知財を安価で提供する代わりに、顧客の利用データはエヌビディアが吸い上げて新たな知財として活用し、次なる有望な技術の開発につなげていく。こうした流れが同社のR&Dロードマップに組み込まれているのです。
見方を変えると、エヌビディアはハードの半導体製造・販売と、技術・知財によるソリューションの提供という2つの収益事業を持っていることになります。1つしか収益事業を持たない企業に比べて強いのは当たり前です。
もちろん、複数の事業を抱える企業は日本にも多数あります。しかしこのビジネスモデルが強いのは、競合他社がやっていない領域でソリューション事業を作って収益を上げているため、モノづくりの方では採算を度外視してビジネスを進められることです。ソリューションでもうかっているのなら、ハードは他社より安く売っても痛くもかゆくもない。このような仕組みを持たない企業が、製品の価格競争だけで勝てるはずがありません。
日本の製造業が、品質が高いにもかかわらず欧米企業に負け続け、「失われた30年」を経験することになったのは、こうした知財戦略の変化が背景にあったのです。
ビジネスアーキテクトの活躍がカギ、全社的な視点で進める知財戦略
──日本企業が自社の技術を競合他社に奪われないように特許を取得するのは一般的ですが、「攻めのオープンな知財戦略」を実践している企業はあまり見られません。それはなぜでしょうか。
林 もちろん、日本企業が「攻めのオープンな知財戦略」の重要性を認識していないわけではありません。それでも実践できている例が少ないのは、いくつかの理由が考えられます。
まず挙げられるのが事業性評価の問題です。すでにお話ししたように、知財を活用してソリューション事業で収益を上げることができるのであれば、知財自体の収益性が低くても構わない。ソフトで高い利益を得られるのであれば、顧客獲得のために採算度外視の低価格でハードを売るという方法も考えられます。しかし日本企業の場合、2つの事業があればその両方で収益を上げるべきだと考えがちです。この点は、日本企業が出遅れてしまっている一因だと考えられます。「攻めのオープンな知財戦略」を取り入れるには、事業性評価の軸を変える必要があります。
知財の活用の仕方について、「ビークル(乗り物)」という言葉を欧米企業の事業開発者・技術者から聞くことがよくあります。これは「攻めのオープンな知財戦略」を実践する上で、重要なキーワードです。知財の提供によって自社に足りないケイパビリティーを外部から取り込み、シェア獲得につなげていく。つまり、知財はお客さまを乗せて自社に運んできてくれるビークルのようなものだということです。ですからビークルの事業性評価は収益額の多寡ではなく、獲得した顧客数、つまりどれだけn数を増やせたかに特化するべきです。
また日本企業の人事の在り方も、「攻めのオープンな知財戦略」が進まない遠因です。先ほどのエヌビディアのように、製造業が顧客の課題解決のためにソフトウエア開発などを手掛けるためには、それまでの本業とは違うデジタル分野の専門人材を、ジョブ型雇用でどんどん登用して新しいチームを編成していく必要があります。人事制度や報酬体系が固定化している日本企業はこれがなかなかできない。ここも見直していく必要があるでしょう。
──知財戦略は知財部門だけのものではなく、経営層を筆頭に、全社的に取り組むべきものだと著書でも書かれています。「攻めのオープンな知財戦略」を経営の中核に据えて取り組んでいくために、日本企業にはどんなことが求められるでしょうか。
林 一つの突破口として、日本企業全体で「ビジネスアーキテクト」という役割への理解を深め、その役割を担う人材を育成していくことが必要だと考えています。
ビジネスアーキテクトとは、簡単に言えば「ビジネスモデルを設計する専門家」のことです。具体的には、顧客に新しい価値を提供するために、自社の既存事業を見直し再編したり、外部のパートナー企業と連携したりしながら、自社のビジネス全体を再設計し、どのようなソリューションビジネスを展開するのが最適かを導き出します。
独シーメンスなどをはじめ、名刺の肩書としてビジネスアーキテクトというポジションが存在する欧米企業は多々あります。このように全社的な視点に立ってビジネスと知財を考えられる人がいないと、「攻めのオープンな知財戦略」はうまく進みません。
ビジネスアーキテクトには、技術の特性を理解し、それを顧客価値に変換できる能力が求められます。例えば花王では技術者がマーケティングを兼任し、ヒット商品「カテキン緑茶」などを生み出した例があります。このような総合的な視点を持つ人材が、経営企画部門や社長直轄のポジションで事業全体を見渡しながら、R&D技術開発の予算配分や知財を起点とするソリューションビジネスの設計ができると良いと思います。
結論にはなりますが、ソリューションビジネスの本質は、モノだけでは伝わらない価値を顧客に認めてもらうために、営業の手を伸ばすことにあります。製品を提供するだけでなく、顧客が抱える課題を理解し、それに応える新たな価値を提案することで、顧客との関係を深め、持続的な取引を確立していくことが可能になります。そのために、日本企業の知財は大いに寄与するはずです。
知財を「守るための資産」から「攻めの武器」へと捉え直し、その活用を全社的に推進する体制を整えて、「攻めのオープンな知財戦略」を取り入れていくことが、これからのビジネスの成否を分けるポイントの一つだと思います。