大企業の経営幹部たちが学び始め、ビジネスパーソンの間で注目が高まるリベラルアーツ（教養）。グローバル化やデジタル化が進み、変化のスピードと複雑性が増す世界で起こるさまざまな事柄に対処するために、歴史や哲学なども踏まえた本質的な判断がリーダーに必要とされている。

　本連載では、『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた』(KADOKAWA)の著書があるマーケティング戦略コンサルタント、ビジネス書作家の永井孝尚氏が、西洋哲学からエンジニアリングまで幅広い分野の教養について、日々のビジネスと関連付けて解説する。

　ヘーゲルの弁証法の本来の意味を解説した前編に続き、後編となる今回は、実は弁証法の力を巧みに操る日本の特徴とエンゲルスがまとめた弁証法の3法則について紹介する。

人間社会は弁証法的に進化していく、と考えたヘーゲル

　ヘーゲルが追求したのは、人類の大きな歴史の流れの中で、人間の理性が果たす役割だ。

　ヘーゲルに半世紀先立って活躍した哲学者カントは、人間の理性を重視しつつ、人間の理性の限界も考え抜き、著書『純粋理性批判』を書いた。逆にヘーゲルは、人間の理性を絶対的に信頼した。前編で紹介したヘーゲルを中心に海外哲学者の翻訳も多く手がける長谷川宏氏は、著書でこう述べている。

「理性的な思考を働かせることで、わたしたちは現実の奥の奥まで認識することができる、とヘーゲルはいいたいのだ」。

　ヘーゲルが生きた18世紀末〜19世紀初頭は、教会や貴族階級が権力を握る中世欧州の封建社会が崩壊して人々が「人間は自由だ」と気付き、神や主君は否定され、個人が「個」を主張し始めた時代だ。こんな時代を生きた彼らにとって自由は「与えられるモノ」でなく、「闘って獲得するモノ」だ。

　だから真正面から向かい合って、話し合う。目的は一致点を見つけることではなく、双方の明確な対立と緊張を大前提に、意見の相違はあるものとして明確に違いを述べ、どちらが理にかない、真理に近いかを議論し、真理に一歩でも近づくこと。そして矛盾を叩きつけて決闘し、否定に否定を重ねる。これがヘーゲルの弁証法の背景にある。

　このプロセスは、いわゆる「和を以て貴し」が身上の日本人は慣れていないし、結構つらい。日本人は意見の違いがあると、何とか双方の一致点を見つけて解決しようとする。「ヘーゲルの弁証法は正反合」という誤解も、「一致点を探す」という発想が心地よいが故の誤解かもしれない（ただ、この点は、後ほど「弁証法的に」改めて検証したい）。

　ヘーゲルの弁証法は「一致点を探す」などという生ぬるい「和」の世界ではない。むしろ「つぼみは花によって否定される」というように、自分の存在が危うくなるほどの否定を重ねて真理を探求する、生死を懸けた決闘だ。このことは私自身、IBMの社員だった時代に欧米人との仕事で身に染みて実感した。

　20代の頃、グローバルコミュニケーションを何も知らない私は、日本流に相手の立場を察して譲歩し、一方で相手からの配慮もひそかに期待した。これが実に甘かった。

　こちらが価値を提供できなければ、譲歩しても奪われる一方。日本流に控えめな者は「ディールできない無能なやつ」、主張なき者は「真理追究に興味がない怠惰な人間」と思われるだけだった。

　このことを身に染みて学んだ私は、海外との対話の場では、自分の人格を改造した。徹底的にロジックを磨き、論理立ててこちらの利害を主張する。優位に立った時点で、ほんの少し譲歩する。この方法は日本では「智に働けば、角が立つ」と言われて敬遠されるが、欧米社会ではむしろタフネゴシエーターとして評価される。いわば「智に働けば、一目置かれる」。

　前出の長谷川氏も著書で、ヘーゲルが智の働きを重視していることを、こう述べている。

「ヘーゲルは、近代的な個の自由と自立を確立する上で、知の働きこそがもっとも基本的な要因をなすと考え、個の自由と自立をめざす『意識』の旅を自立した知への旅として描いてみせたのだ」

　ただし、日本について別の見方もある。日本人が日頃気が付かない指摘なので、こちらも紹介しておこう。

実は日本は弁証法的な国？

　ヘーゲル哲学研究者であるカトリーヌ・マラブーは、『ハーバードビジネスレビュー』2007年4月号（ダイヤモンド社）の記事で「硬直性と流動性の中間である可塑性（プラスティシテ）がヘーゲルの中核概念」と前置きした上で、「日本は極めて弁証法的な国」と主張している。「日本は一見異質を排除するが、実はオープンで好奇心旺盛、異文化にも融通無碍（むげ）」というのだ。

　マラブーの可塑性の概念は、弁証法的な進化がいかに起こるかを理解する上で重要なので、補足しておこう。

　鉄は硬い。水は流動性があり自由自在に流れる。可塑性は、鉄の硬直性と水の流動性の中間形態だ。陶芸家が粘土をこねたり、プラスティックに熱を加えて変形させる状態のイメージに近い。

　可塑性がある状態は、モノの本来の形が消滅する一歩手前だ。しかし可塑性を超えて変形すると破断する危険性も持つ。つまり可塑性は、変化に対する強力な抵抗力も併せ持つ。その意味で、鉄の硬直性とも、水の流動性とも異なる状態だ。弁証法的な変化は、この可塑性があるしなやかな状態に転移した際に起こる、とマラブーは述べている。そして「日本では、これが起こっている」というのだ。

　思想史家の丸山眞男は1950〜60年代に著書『日本の思想』で、日本には思想的伝統がなく、ある意味、無節操に海外文化を取り入れてきたことを指摘した。これがしなやかな可塑性だ。一方で日本はまったく新たな思想に直面した当初は、幕末の尊皇攘夷のように拒絶したりする。これが可塑性が持つ変化への強い抵抗力だ。

　マラブーは「私の可塑性の概念は、日本では既に下地ができていたかのように、すぐに十分に理解されたと感じられました。（中略）日本はある意味、きわめて『ヘーゲル的な国』だからです」と述べた上で、「欧米の資本主義と、極東の資本主義のどちらかを選択するのではなく、日本は弁証法という力を巧みに操り、両者の間をうまく貫くべきであると、私は考えます」と述べている。

　この指摘は実に興味深い。

　米国人は徹底的に議論を戦わせる一方で、モノゴトを過度に単純化しようとする傾向が極めて強い。言い換えれば、矛盾への忍耐力が実に弱い。例えば会議で皆が沈黙する時間だ。

　日本人は「この矛盾、どうしようかと皆考えているんだな」と察する。しかし多くの米国人はこの沈黙に耐えられず、シンプルな解決策に走りがちだ。米国人にとっては合理的であるこの単純さは、確かにビジネスでは瞬発力を発揮するが、時に脆さも露呈する。

　立派なビジョンを掲げて素晴らしい人材を引きつけ、爆発的に成長してきた米国の巨大IT企業も、2023年に不況の兆しが見えた途端、ビジョンをかなぐり捨てて、容赦なく人員削減に踏み切った。その結果、彼らの企業文化は長期的に見ると少なからず影響を受けている。

　逆に日本は業績が悪化しても、ある意味耐える。業績向上のためにアクティビストが人員削減や事業売却を強く迫っても、「これらは大事な資産だから…」と応じずに、なかなか煮え切らない。

　マラブーの視点で見ると、これは弁証法の力を巧みに操り、矛盾へ可塑的に対処している、とも言える。本当の意味での弁証法的な世界が日本にはある、ということだ。

　しかしヘーゲルの弁証法は、やはり難解だ。一読しても、どう活用すればいいかよくわからない。そこでヘーゲルの弁証法を一気にかみ砕いたのが、かのマルクスの盟友・エンゲルスだ。

ヘーゲルの弁証法を改造したエンゲルス

　エンゲルスは著書『自然の弁証法（抄）』（新日本出版社）で「事柄をひっくり返してみれば、すべては簡単になり、観念論哲学ではことのほか神秘に見えるあの弁証法的諸法則は、たちどころに簡単明瞭になる」と述べた上で、弁証法をシンプルな3法則にまとめている。

①量の質への急転・・・量が質を生む法則だ。家具製造販売大手のニトリは、多数の店舗をつなげて全体で大きな力を発揮する「チェーンストア理論」を実践している。店舗数が200になった時には仕入れ交渉力が倍になり、さらに価格を下げることができたという。小売業では、まさに店舗数という量が質を生む。

②対立物の相互浸透・・・つながる者同士がお互いに進化する。三浦つとむ氏は著書『弁証法はどういう科学か』（講談社現代新書）で、A君とB子さんが結婚する例を挙げている。家庭を持つとお互いの考え方が影響を受け合い、学び合って二人は精神的に育っていく。まさにこのことと同じだ（ここでいう「対立」とは「自立・個別」という意味であり「競合・対立関係」という意味ではない）。

③否定の否定・・・歴史上、進歩は「現存するモノの否定」として登場してきた。2000年頃にCD販売主体だった音楽業界は、インターネット普及で簡単に音楽を違法コピーしネット上で共有する人たちが登場して存亡の危機に立った。そこでアップルは音楽業界と協業し、iTunesでデジタル音楽を購入できる仕組みをつくり、違法コピーを追放した。そのiTunesも、Spotifyなどの音楽聴き放題サービス登場で否定されつつある。音楽業界も「否定の否定」により進歩を続けている。

　こうしてエンゲルスは、ヘーゲルの弁証法を使いやすくした。この3法則を活用すれば、世の中の動きが将来どうなるかも見通せるようになる。

　ちなみにエンゲルスがヘーゲルの弁証法を改造した際に、ヘーゲル哲学の根っ子にある「世界は絶対知に向かって発展する」という観念的な弁証法を、「世界は科学的に発展する」という「唯物弁証法」に置き換えた。

　そして「唯物弁証法」という武器を手に入れたエンゲルスと盟友マルクスは、自分たちの理論を科学的に構成し、社会主義思想を打ち立てた。この思想をレーニンとスターリンが取り込んでソビエト連邦を、さらに毛沢東が取り込んで中国共産党をつくった。ソ連は崩壊したが、中国共産党は力を増している。その源流には、エンゲルスが改造したヘーゲルの弁証法がある。

　繰り返し述べているように、弁証法のカギは「否定の力」だ。「否定の否定」の法則があるのも、歴史が変わると真理が誤りに変わるからだ。進化の原動力は、この矛盾だ。一方で弁証法を活用するには、自分が誤る可能性も認め、自分を否定する勇気も必要なのだ。

　この弁証法が分かれば、社会の裏にある構造が見え、ビジネスも見通せるようになる。ぜひヘーゲル哲学に挑戦してほしい。