カゴメ創業者・蟹江一太郎(『カゴメ八十年史』(1978年))

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第1回 トヨタ個性派社長の人間味、帝人の不穏な社長交代…社史はこんなに面白い
■第2回 有毒植物視される“難敵”トマトにカゴメ創業者・蟹江一太郎はどう立ち向かったのか ※本稿


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カゴメのはじまり

 何事も「はじまり」がある。会社も然り。「創業」「創立」は「事業を新しく始めること」で、社史の「年表」などを見ると「創立○周年記念」の起算日がすなわち創業年になっている。ところが、会社が「創業年」としている年月が、創業者が新たに事業を始めようと考えていたわけでもない例が散見される。

 例えばカゴメ。創業者・蟹江一太郎は1875年(明治8年)、愛知県知多郡名和村(現・東海市名和町)に生まれた。生家の佐野家と婿養子に入った蟹江家は徒歩30分弱の距離で同規模の農家だったが、態様はかなり違った。米麦が主の佐野家に対し、蟹江家では養父の甚之助が積極的・意欲的な農民で、規模の拡大ではなく、内容の改善、つまり、有効適切な作目を選んで取り入れることによって農業を改善しようという考えの下、各種の野菜、ミカン、タケノコの栽培、大がかりな養蚕など、多角的・複合的農業を手掛けていて、一太郎に新しい農業観をもたらした。

 さらに、兵役時代に、上官の西山中尉から「誰もが作っている作物では生産過剰で値が下がる。これからの農業は、米・麦のみに専念するのではなく、多くの現金収入が見込めるもの、例えば西洋野菜のような将来性のあるものを手掛けるなど、農業のあり方を時代に即したものに変えてゆくべきだ」と教えられた蟹江は、除隊後の1899年(明治32年)、農事試験場の佐藤杉右衛門のあっせんでトマト、キャベツ、パセリ、白菜、玉ねぎ、ダルマ人参などの種を手に入れて栽培に着手、進歩的農民として一歩を踏み出した。

 当時、西洋野菜の需要はホテルや西洋料理店などごく限られてはいたが、予想外の値段で確実に売れた。しかし、トマトだけは全く買い手がなく、丹精して作っても捨てるか腐らせるしかなかった。不人気の理由は、珍妙この上ない味と、誰もが鼻をつまんで駆け出すほどの強烈な臭いだった。トマト畑で働いて帰ると、着ているものを全部脱ぎ、体をよく洗ってからでなければ家にも入れてもらえなかった。当節のトマトとは似ても似つかない状況ではないか。日本だけではない。かつて、ヨーロッパでは異臭を放つ有毒植物と嫌悪され、イギリスでは17世紀半ば、今日の麻薬植物と同様、一般人の栽培が法令をもって禁止されたことさえあったという。

 蟹江は何度も栽培をやめようと思ったが、「トマトは玉ねぎやキャベツと並ぶ代表的な西洋野菜」という佐藤杉右衛門の言葉を思い出しては、まだまだ勉強が足りないのだと、トマトの栽培を諦めなかった。愛知県農事試験場の技師・柘植(つげ)権六から「連作を避ける。支柱を立てて摘芯・摘芽を行う」など技術的な知識を得てやってみると、それまでの倍の数のトマトができて、異臭が漂う事態は一層深刻になった。

トマトソースの誕生

 蟹江は、柘植がふと漏らした「アメリカではトマトを加工しても食べるようだ」という言葉を思い出し、加工すれば嫌な臭みを消せるのではないかと考えた。さらに、西洋料理店の主人・平野仲三郎から「トマトソースというものがある」と教えられ、地元で唯一の洋式ホテル・名古屋ホテルの料理長から一瓶分けてもらい、それを見本に家族総出で加工法を研究した。トマトを鍋で煮ながらつぶし、それを裏ごししてみると、見本と変わらない味の赤い液体が出来上がった。調味料を加えていなかったから、厳密には現在のトマトピューレであったが・・・。

 1903年、トマトソースの製造販売を開始したものの、どうやって売ればよいのか見当もつかない。最初に平野を訪ねて見せると、平野は、蟹江が自力で作り上げたこと、舶来品にも劣らないその出来ばえに驚いて、2ダースを買い上げ、さらに「しかるべき問屋に任せるのが一番いい」と、洋風食品問屋の梅澤岩吉商店を紹介してくれた。店主の梅澤は、トマトソースの将来性を見抜き、蟹江が初年度に製造したビール瓶詰め、4ダース入りの箱で5、6箱分の大半を引き受け、2年後には独占販売契約を締結、両者の関係はその後70年以上にも及んだ。

 1906年、60坪の工場を建設して本格的な生産に入り、3年後に5000箱、5年後には6000箱と生産は驚異的に伸びたが、ここで大きな問題が生じた。トマトを作っていたのが蟹江家だけであったから、原料確保が難しくなったのだ。ところが、蟹江家のトマトソース作りを知った何軒かの農家から「できたトマトをすべて引き取ってくれるなら、栽培してもよい」という思いがけない申し出があったのである。そこで蟹江は、近隣の農家との契約栽培を開始して、材料確保の問題を解決、さらに、農家を組織化し、分担制による一貫した加工体制も確立した。

 1908年(明治41年)には、後にカゴメの代表製品となったトマトケチャップやウスターソースの製造に取り組んだ。暗中模索で挑戦したトマトソースに比べて、原料や製造工程はあらかじめ分かっていたが、味と香りの決め手となる香辛料の調達が難しかったこと、また、日本人の舌になじみやすいように味や香りをまろやかにするための試作を繰り返したことなどによって、かなりの苦労と時間を要した。ようやく出来上がったウスターソースは、発売当初から好調な売れ行きを示し、ヒット商品となった。

 当時、周辺の農家の平均年収は300円。農作物は田畑が増えない限り、収穫量が数倍になることなどないから、5000円くらいで田畑を買うのが夢だった。が、蟹江家では1908年には総売上高1075円47銭9厘、4年後の1912年には5010円4銭と5倍近い伸びをみせ、農耕だけでは実現不可能な規模にまで発展した。これにはソースの売り上げが大きく貢献しており、1908年には47.4%、4年後には、91.1%を占めた。

農業愛を示す創業年

 1914年、愛知トマトソース製造合資会社を設立、1917年にはカゴメ印を商標登録(1983年、KAGOMEに変更)、さらに1963年には社名もカゴメ株式会社に変更した。

 トマト加工によって、大きなもうけ、多額の現金収入を実現した蟹江だが、「加工はあくまでも農耕の副業、農家の遊休労働力の利用、年間を通じた労働力の配分であり、過剰な生産を行えば大量の在庫を抱える危険性がある」と、大正時代の半ば頃まであえてそれに専念しなかった。それは蟹江が、農業を何より大切にした実直な農民だったからだろう。カゴメの創業が、トマトソースを製造発売した1903年でもなく、愛知トマトソース製造を設立した1914年でもなく、“西洋野菜の栽培に着手した” 1899年であることからもうかがえる。そして、昔のトマトの、現在とは全く違った意外性も、カゴメという会社誕生の遠因であった。

<参照社史>『カゴメ八十年史』(1978年)、『カゴメ一〇〇年史』(1999年)

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