キリンホールディングス常務執行役員(CSV戦略担当)の溝内良輔氏

ビール造りで息づいていたキリンの「醸造哲学」

 キリンホールディングスが、グループを挙げてCSR(企業の社会的責任)からCSV(クリエイティング・シェアード・バリュー/社会的価値と経済的価値の両立)経営へと大きく舵を切ったのは10年前の2013年のことだった。当時、日本で初めてCSVの名称を使った部門(CSV本部)を発足させた。

 そのきっかけとなったのが2011年の東日本大震災だ。震災ではキリンビールの仙台工場も被災したが、直後から復興支援に取り組み、3年間で約60億円の義援金を拠出した。ただ、復興支援は一定の成果を上げたものの、寄贈事業だけでは持続性に限界もあった。

溝内 良輔/キリンホールディングス常務執行役員(CSV戦略担当)

1959年生まれ、徳島県出身。一橋大学経済学部卒業後、1982年キリンビール滋賀工場労務課入社。1988年6月MITスローンスクール・オブ・マネジメント修了。1997年キリンビール市場リサーチ室長、2010年3月ライオン Pty Ltd 常勤取締役、2012年3月キリンホールディングス執行役員 経営戦略部長 兼 提携戦略部長、2015年3月キリンホールディングス常務執行役員 ブラジルキリン非常勤取締役、2017年3月キリン取締役常務執行役員 兼 キリンホールディングス常務執行役員(CSV戦略担当)、2019年3月キリンホールディングス常務執行役員 兼 メルシャン取締役(現職)

 また、同じ2011年、米国ハーバード大学教授で経営学者のマイケル・ポーター氏がCSVの重要性を提唱し、この考え方に深く賛同したのがキリンHDの磯崎功典社長である。現在、CSV戦略を担当するキリンHD常務執行役員の溝内良輔氏はこう振り返る。

「磯崎社長がCSVを語り始めた2012年、私は経営企画部長でしたが、当初は社内でも『CSRとCSVはどこが違うのか』とか『CSRのほうが通じやすい』といった声も多く、CSVが正しく理解されているとは言えませんでした」

 CSRは平たくいえば社会貢献活動であるのに対し、CSVは社会課題を解決することに資するビジネスを展開することで収益も上げ、企業を成長させていく考え方だが、前述のポーター氏がCSVを推奨した背景には、すでにCSV経営を実践している企業の事例があった。スイスに本社を置くグローバル食品メーカーのネスレである。

 ネスレは2007年、アフリカなどの発展途上国における乳業ビジネスで以前から実践していた経営思想をCSVと命名し、これを経営コンセプトとして広めたのがポーター氏であった。ただし、キリンHDがCSVを経営の基軸に据えると宣言したのは、ネスレのような前例に倣ったからではなく、キリンの土壌、文化に根差した要素が大きかったようだ。

「我々は1980年代から医薬品事業に参入していますが、すでにその頃から、バイオの技術革新で社会課題を解決しようという発想がありました。それをCSVとは呼んでいなかっただけなのです」(溝内氏)

 磯崎社長は常日頃から、「キリンは技術オリエンテッドな発酵バイオテクノロジーの企業集団」と語っており、「そこにはビール造りを生化学として捉える、“生への畏敬”というキリンの醸造哲学が息づいている」(溝内氏)のだという。

世界に例のない「プラスチック循環経済」への挑戦

 また医薬品事業とは別に、キリンビールではCSVに資する飲料商品も販売している。2009年、日本はもちろん世界でも初めてのアルコール0.00%のノンアルコール・ビールテイスト飲料、『キリンフリー』の発売がその一つだ(2017年に終売)。

 いまでこそ、各ビールメーカーから多くのノンアルコール・ビールテイスト飲料が販売されているが、「キリンフリー」の登場で、飲酒運転や妊産婦飲酒という社会課題を解決する一助になったわけである。

 CSV、あるいはESG(環境、社会、企業統治)投資といった言葉が一般に広く認識され始めるようになったのは、2015年に国連がSDGs(持続可能な開発目標)を採択してからではないだろうか。翌2016年にはキリンHDもより踏み込んで、酒類メーカーとしての責任に加え、健康、コミュニティ、環境をグループのCSVパーパス(社会的存在価値)に据えている。

【キリングループCSVパーパス】
「酒類メーカーとしての責任」を果たし、「健康」「コミュニティ」「環境」という社会課題に取り組む

「環境面での価値創造の1つが包装容器の軽量化です。びん、缶、ペットボトルなどの容器や段ボールなど包材の軽量化を進めることで使用原料を減らし、温室効果ガスの排出量とコストの削減を両立しました。また、商品の軽量化で運搬するトラックの負荷が減り、輸送で排出する温室効果ガスも減っています。累計で見れば、1000億円規模の経済的効果を上げているでしょう。

 この取り組みを大きく展開できた下地に、我々が持つパッケージイノベーション研究所の存在があります。研究所には約50人の研究員がいますが、この規模のパッケージ専門の研究所を自社内に持っているのは世界的にもユニークだといえます」(溝内氏)

 さらに注目すべき点が、現在、三菱ケミカルと実用化を目指して取り組んでいる「ケミカルリサイクル(化学的再生法)」である。ペットボトルの再生のほとんどはメカニカルリサイクル(物理的再生法)と呼ばれるものだが、メカニカルリサイクルでは品質劣化により、再生回数には限りがあるとされている。

 そこをケミカルリサイクルによってブレークスルーし、ペットボトルを資源として恒久的に使い続けられるようにしようというアプローチで、まだ世界に例のない「プラスチック循環経済」の構築を目指しているのだ。

「日本ではペットボトルの約9割が回収されていますが、メカニカルリサイクルに使えるクリーンなものは一部であり、多数はトレイやカーペットなどグレードを下げて再利用されています。それ以上グレードを下げられなくなると、最後は燃やさないといけませんので温室効果ガスが発生します。そうではなく、ペットボトルはペットのまま再生し続けていければアルミと同じ永続的なリサイクルになるわけで、そこにチャレンジしているのです。

 メカニカルリサイクルのような小さな粒子にして再生するやり方ですと、毎回不純物が入ってしまいますが、我々が取り組むケミカルリサイクルでは分子レベルまで分解しますので、毎回新品と同じクオリティのペットボトルがずっと使い続けられるようになるわけです」(溝内氏)

 三菱ケミカルとの協業によるこの取り組みは、2027年までにケミカルリサイクルによるペットボトル再生工場の建設、稼働を目指しており、実現した場合は日本に限らずグローバルにパートナーを広げていくことも視野に入る。世界から日本が環境立国として認識してもらえる、大きなステップになる可能性を秘めたプロジェクトといっていい。

【プラスチックが循環し続ける社会】
PET製品のサーキュラーエコノミーの確立を目指すとともに、PETボトル以外のPET製品を回収する仕組みも構築していく
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クラフトビールブームで追い風が吹いた「ホップ栽培」

 こうした容器包材の取り組みももちろん重要だが、商品の中味についてのCSVの取り組みなら、一般消費者にもより身近で理解を得やすいだろう。その事例の1つが、ビール造りに欠かせない原料であるホップを栽培する農家の支援事業である。

「衰退する日本産ホップ栽培の持続や地域創生のためにホップ農家の支援に取り組み始めたのは2007年頃でした。

 岩手県の遠野市と当社とで、『TKプロジェクト』というものをスタートしました。まずはホップの里としての遠野市を広く知っていただこうということで、『一番搾りとれたてホップ』のパッケージには“遠野産ホップ使用”を印字しています。おかげさまで遠野市といえばホップという印象が定着し始めました。次はホップの里からビールの里へということで、遠野産ホップを使ったビール造りを手がけていた地元の上閉伊酒造さんへのサポートや、新規に起業された遠野醸造さんの立ち上げをお手伝いさせていただき、遠野市を支援してホップ収穫祭というビアフェスを始めました」(溝内氏)

日本産ホップの品質向上と安定調達に取り組み、日本産ホップならではの特徴あるビールづくりを行うとともに、生産地域の活性化に寄与

 日本産ホップの生産量は、ホップ農家の高齢化による後継者不足などもあって、たとえば2008年には年間450トン弱だったものが2020年には200トン弱まで減少。ホップ農家を何とか下支えしたいという思いからキリンの取り組みが始まったわけだが、前後してクラフトビールブーム到来という追い風も吹いた。

「クラフトビールには、トロピカルフルーツやシトラス系など香りに個性があるホップを使用しますし、一般的なビールに比べてホップの使用量が圧倒的に多いんです。しかも特徴あるホップは高くても買ってくれます。クラフトビールが定着した米国では、過去10年でホップの生産量が2倍ぐらいになっています。

 米国市場のクラフトビールはボリュームではビール市場全体の2割程度ですが、ホップの使用量でいえば過半を占め、グローバルではホップは成長産業になっています。たとえば『MURAKAMI SEVEN』などの個性豊かなホップを栽培すれば、日本のクラフトブルワリー向けはもとより海外にも輸出でき、クラフトビールに注力するキリンとホップ農家はパートナーとして共存共栄していける。まさにクリエイティング・シェアード・バリュー(CSV)というわけです」(溝内氏)

スリランカで持続的な農業促進をしている紅茶葉農家をサポート

 一方、海外では持続的な農業の促進のため、スリランカ紅茶葉農家によるレインフォレスト・アライアンス認証の取得を2013年から支援している。この認証は、製品や原料が持続可能な3つの柱(社会、経済、環境)の強化につながる手法で生産されていることを示すものである。

「レインフォレスト・アライアンス認証の紅茶葉は高く売れますので、スリランカの紅茶農家の生活環境も生活水準も高め、キリンも高品質の紅茶葉を安定的に買い付けられるわけです。この認証を取得している紅茶農家の3割ぐらいは当社でサポートしています」(溝内氏)

『キリン 午後の紅茶』に使用している紅茶葉の産地であるスリランカの紅茶農園が、より持続可能な農園認証を取得するための支援を実施

 キリンビバレッジが販売する『午後の紅茶』シリーズは1986年から発売し、紅茶市場では圧倒的なシェアを持つ。日本が輸入する紅茶葉の産地割合でスリランカ産が約50%を占める中、その約4分の1が『午後の紅茶』で使用されているというから驚きだ。

世界のCSV先進企業への「一丁目一番地」ヘルスサイエンス事業の可能性

 そして溝内氏が現在、「キリングループにおける世界のCSV先進企業への“一丁目一番地”」と語るのがヘルスサイエンス事業である。

キリンの独自素材「プラズマ乳酸菌」を配合した免疫機能の機能性表示食品のラインアップを拡大

 磯崎社長はコロナ禍前の2019年、「今後は医と食をつなぐヘルスサイエンス領域をグループ横断で強化、拡大していく」と宣言。その中核を占めるのがプラズマ乳酸菌(商品名は『iMUSE』)のビジネスだ。この事業には、医療費削減や感染症対策という社会課題解決のミッションもある。

「グローバルで健康保険の財政が厳しくなる中で、未病の段階で止めることは医療費を抑えるうえで不可欠になっています。そこでプラズマ乳酸菌によって免疫機能を維持することはとても重要になります。

 たとえば、デング熱といった熱帯の感染症は温暖化によって徐々に北上しており、将来は日本でも広がる可能性があります。デング熱は現状、特効性のあるワクチンがなく、それに備えるには免疫機能の維持が必須なのです」(溝内氏)

 国立感染症研究所エイズ研究センターとの共同研究では、新型コロナウイルスの複製増殖を、プラズマ乳酸菌によって顕著に低下させることも確認されている。

 また、最近では日本コカ・コーラとの提携でコカ・コーラの主力飲料製品向けにプラズマ乳酸菌を提供。北海道、北陸、長野エリアではすでに販売が始まっており、日本コカ・コーラとの協業はグローバルな展開に進む可能性も出てくる。

 キリンHDでは、ヘルスサイエンス事業全体で2027年に2000億円の売り上げを目指し、うち500億円をプラズマ乳酸菌商品で稼ぐ目標を掲げている。食と医をつなぐヘルスサイエンス事業は、キリングループが目指す「世界を代表するCSV先進企業」に向けての大きな一里塚といえるのだ。