ポテトチップスの量産化から3年後、湖池屋は埼玉県加須市に新工場(加須工場)を竣工し、生産体制を強化する。この工場は関東工場として現在も同社の重要な生産拠点になっている
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湖池屋を取り上げている連載も今回で3回目になる。過去2回は湖池屋の原点であり、同社を語る上では欠かせない「ポテトチップス のり塩」にスポットを当てた。
その「ポテトチップス のり塩(以下、のり塩)」は、湖池屋を創業した故・小池和夫氏(以下、和夫氏)によって世に送り出された。和夫氏はじゃがいもの品種、産地など、そうした知識や知見もないところからポテトチップスをつくり始め、日本ならではの味として、のり塩という味付けにまでたどり着く。ようやく完成した「のり塩」は評判が評判を呼び、爆発的に売れる一方、伸び続ける需要に生産が追い付かなくなってしまう。そこで、和夫氏は最新の生産・設備を学ぶため、ポテトチップスの本場・米国へと渡り、現地の工場などを視察。ポテトチップスの量産化を模索する。そして、設計図もない、手探りの状況から国内の機械メーカーとともに自前でオートフライヤーをつくり上げ、日本で初めてポテトチップスの量産化を実現させる。ここまでが過去2回のあらすじになる。
さて、3回目だが、「のり塩」が量産化された後に触れるとともに、激辛ブームの火付け役になった「カラムーチョ」が登場する手前、その辺りまでを視野に原稿を書き進めたいと思っている。
現在、「カラムーチョ」は「のり塩」などと並び、湖池屋の基幹商品として重要なポジションを担っている。この「カラムーチョ」を発売したこと。そのことも同社のターニングポイントになっているので、その点を気に留めつつ今回の原稿を読んでもらえればと思っている。
順調に売り上げを伸ばす中、カルビーがポテトチップスを発売
今から55年前の1967年、「のり塩」が量産化されると、その販売方法にも変化が生じる。「のり塩」は発売当時から袋詰めにされた商品が販売されていたが、その一方で菓子店などに一斗缶で納品し、それを店頭で量り売りするという販売形態も多く見られた。しかし、量産化の後、「のり塩」は流通菓子として袋詰め商品の販売へと大きくシフトしていく。
そして、量産化から3年後の1970年には「のり塩」に加え、5月に「ポテトチップス ガーリック」と「同 バーベキュー」、6月に「同 カレー」が発売され、フレーバーの水平展開によって商品のバリエーションが広げられる。また、同じ年には新工場として埼玉県に加須工場(※現在の関東工場)が竣工するなど、湖池屋は生産体制の強化を図りつつ、売り上げを順調に伸ばしていく。
日本が高度経済成長期だった1970年。この年は大阪府吹田市で日本万国博覧会が開催されるなど、外国から入ってきた新しいものや異文化が注目を集めていた。そんな海外の味を手軽に味わえる商品として、湖池屋は「ポテトチップス ガーリック」、「同 バーベキュー」、「同 カレー」を発売。ポテトチップスの商品ラインアップを拡大する
このようにポテトチップスの量産化によって、湖池屋は大きな飛躍を果たすことになったが、すぐ先の未来には新たな試練が差し迫っていた。1970年代に入ると、ポテトチップスを製造・販売するメーカーは数多く存在することになる。しかし、量産化やじゃがいもの契約栽培など、他社に先駆け、いち早く取り組みを進めてきた湖池屋にとって、それほど大きな影響を及ぼすものではなかった。
だが、湖池屋が「のり塩」を量産化してから8年後の1975年、これまで順調に推移してきた流れにも転機が訪れる。その年、カルビーがポテトチップスのカテゴリーに本格的な参入を果たしたのだ。1975年当時、カルビーは既に1964年に発売した「かっぱえびせん」を筆頭に、1971年には「仮面ライダースナック(カード付)」、翌年の1972年には「サッポロポテト」、さらに、1973年には「プロ野球スナック(カード付)」、1974年にも「サッポロポテト バーべQあじ」と、矢継ぎ早にスナック菓子を発売。それらの商品をヒットさせていた。
先に列記した「かっぱえびせん」、「サッポロポテト」、「サッポロポテト バーべQあじ」は、現在でも販売されているロングセラー商品であり、「仮面ライダースナック(カード付)」や「プロ野球スナック(カード付)」も、あなたが50~60代であれば、カード集めに没頭した思い出とともに、懐かしい商品だったりすることだろう。つまり、1975年当時、カルビーはスナック菓子で、子供から大人まで、幅広い層をカバーする商品をそろえていたことになる。
“味では絶対に負けない”という自信と姿勢で応戦するも・・・
そのカルビーがポテトチップスを発売する。それは湖池屋にとって脅威にならないはずがない。しかも、後発という不利やトライアル購入の促進などを見込み、当時、売価150円だった「のり塩」に対し、カルビーは売価100円という価格を打ち出したのだ。さらに、女優で歌手の藤谷美和子さんを起用したテレビCMでは、『100円でカルビーポテトチップスは買えますが、カルビーポテトチップスで100円は買えません。悪しからず』というインパクトのあるメッセージが注目を集めるなど、100円という価格に、話題のCMが大きなフックとなり、同社の「ポテトチップス」は勢いを加速させることになる。
カルビーの攻勢に対し、湖池屋はというと、和夫氏の『価格で負けても、味では絶対に負けるな』という檄の下、味と品質に対する自信から商品の価格を下げることなく応戦する。しかし、価格差の影響は徐々に表面化していく。1975年当時の物価を見てみると、大卒の初任給が平均で9万1272円。その年の月によって誤差は生じるかもしれないが、ビールが180円、都営バスの運賃が70円、はがきが10円という時代。そうした中、いくら味と品質で勝負と言っても、やはり50円という価格差は大きかった。
さらに、カルビーは「ポテトチップス」を発売した翌年(1976年)に「ポテトチップス のり塩(※売価120円)」を投入。そして、1978年には大ヒット商品になった「ポテトチップス コンソメパンチ(※売価120円)」を発売する。この「ポテトチップス コンソメパンチ」が登場した影響は大きく、湖池屋の市場シェアをカルビーが浸食していくことになる。
しかし、この状況に湖池屋も黙って、手をこまねいていたわけではない。1つはカルビーがポテトチップスに参入したことを好機と捉え、ポテトチップス専業メーカーから総合的なスナック菓子のメーカーとして社業を拡大していくという方針が生まれる。これによって、この時点では、まだ先の話になってしまうが、コーンスナックとして、1987年に「スコーン」、1990年に「ポリンキー」、1994年に「ドンタコス」というロングセラー商品が発売されることになる。
1975年、カルビーがポテトチップス市場に参入したことを機に、湖池屋はポテトチップス専業から総合スナック菓子のメーカーへと転身し、社業を拡大していく。こうしてコーンスナックのロングセラー商品・「スコーン」、「ポリンキー」、「ドンタコス」が誕生することになる(写真は現在の商品)
また、湖池屋は“本当に美味しいものをつくる”という創業以来の信念を秘めつつ、ポテトチップスの量産化を果たした年(1967年)から米国の現地視察や市場調査を定期的に行っていた。その目的は「のり塩」に続く、「のり塩」を超える新たなジャンル、新たな味の発掘と追求だった。その取り組みは、やがて形となって結実することになる。それは、スナック菓子に新たなジャンルを切り開いた商品、「カラムーチョ」の誕生へとつながっていく。
1984年に発売された「カラムーチョ」。当初、これまでのポテトチップス(フラットタイプ)と差別化を図るため、「カラムーチョ」はスティックタイプで発売される。写真左は発売当時の「スティックカラムーチョ」。写真右が現在の「スティックカラムーチョ」
“ピンチはチャンス”試練の先に広がる未来
さて、話は少し飛んでしまうが、“ポテトチップスでのり塩といえば、湖池屋。コンソメといえば、カルビー”と、多くの皆さんもイメージすることだろう。ロングセラーでありながら、現在もしっかりメーカーの看板を背負っている商品には、やはり一日の長がある。競合他社が同じような商品を発売したとしても、それらの商品を越えることは並大抵ではない。そこには先駆者として培ってきたさまざまなこだわりと、ブランドというものが存在するからだ。
次回、話のメインを飾る「カラムーチョ」も、そんな商品の1つといえる。そして、「カラムーチョ」の場合、ポテトチップスという枠にとどまらず、辛いスナック菓子、辛い食品の代名詞になっていると言っても過言ではないのだ。
今回は「カラムーチョ」が発売される経緯や、その過程を紹介する意味を含め、カルビーがポテトチップスのカテゴリーに参入したことで、新たな試練に直面することになった湖池屋を描いた。しかし、その試練によって、コーンスナックの「スコーン」、「ポリンキー」、「ドンタコス」が生まれ、そして、「カラムーチョ」が誕生する。まさに“ピンチはチャンス”、そんな言葉がピタリとはまる展開が、この先の湖池屋には待っている。
次回は「カラムーチョ」の開発からヒット商品へと駆け上がり、新たな市場を突き進む「カラムーチョ」の姿を、エピソードとともに紹介していく。次回も楽しみにしてもらえればと思う。
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