年間38万人以上が亡くなり、日本人の死因の第1位になっている「がん」。がん細胞中の細胞増殖などに関わる情報伝達(シグナル)に異常が生じることで、がんの成長や転移が促されるという。そうした異常なシグナルの実態を把握できれば、がんの性質をより深く理解することができ、新たな治療法の開発につながる可能性がある。さらには、他の疾患についても早期発見できるようになるかもしれない。細胞のシグナルに注目して疾患の実態に迫る研究を、その研究を支える「質量分析計」という装置とともに紹介する。
がんの性質を決める「リン酸化シグナル」
「がんの変化に合わせて治療も変化させていくことががん治療では重要だと考えています。だからこそ、がん細胞内で起きているダイナミックなシグナルの変化をとらえることを研究の目的としています」
そう話すのは、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所 医薬基盤研究所 創薬標的プロテオミクスプロジェクト プロジェクトリーダーである足立淳氏だ。がん細胞内のシグナルとは何なのだろうか。
現在のがん治療は主に、手術や化学療法、放射線療法、分子標的治療、免疫療法からなっている。その中でも近年は、分子標的治療や免疫療法の登場によって治療選択肢が増えている。分子標的薬とは、がん細胞で変異している遺伝子から作られる異常タンパク質にだけ作用する薬のことだ。分子標的薬を投与する際には、事前にがん細胞でどの遺伝子が変異しているのかを調べる遺伝子検査を行う。
しかし、がんと一口に言っても患者によって性質が異なり、同じ患者でも時間経過や治療前後でがんの性質が変化する。こうした多様性や複雑性ががんにはあるため、治療薬の研究・開発を難しくしている。
がんの多様性や複雑性を生み出しているのが、多種多様なタンパク質だ。細胞の中では、あるタンパク質が他のタンパク質などに作用して細胞の機能を維持している。細胞を一つの会社に例えるなら、社員同士で情報交換をしながら各自の仕事をしているようなものだ。細胞でも情報のやり取りが行われており、その情報伝達のことをシグナルと呼ぶ。
がん細胞では遺伝子変異によってタンパク質の機能が異常をきたしており、シグナルの発信や受信の方法、量が変化することで、がんの成長や転移を促す。シグナルの中でも、タンパク質にリン酸基という目印を付ける「リン酸化」が、がんの性質を大きく左右すると考えられている。足立氏は、「がんの増殖にはリン酸化シグナルが大きく関わっています。リン酸化の詳しい変動を調べることで、がんの性質をより正確に理解できると考えています」と話す。
胃がんと大腸がんの肝転移で突き止めた治療薬候補
足立氏の研究チームは近年、胃がんや大腸がん肝転移におけるリン酸化シグナルを解析し、新たな治療法開発につながる研究成果を発表した1)2)。
プロジェクトリーダー 足立淳氏
胃がんの解析研究では、リン酸化はわずかな環境変化でも影響を受ける可能性があるため、胃がん患者から内視鏡を使って採取後わずか20秒以内に凍結保存した微量ながん検体を、リン酸化シグナルを解析する独自の技術を用いて解析した。
治療を受ける前の127検体を解析した結果、1検体あたり平均して2万を超えるリン酸化部位を定量することに成功した。また、リン酸化シグナル情報から、図1の通り未治療の胃がん患者は3つのリン酸化タイプに分類できることが分かった。
(https://www.nibn.go.jp/pr/press/documents/5cc5c179074d3d4a9a47ad3d4da5922a429cd5ec.pdf)
さらに、手術では切除できないほど進行した胃がん患者9名において、最初に行った化学療法後(2次治療前)、次の治療中(2次治療中)、増悪時と、治療経過に合わせてがんのリン酸化シグナルを解析した。その結果、治療が経過するほど、リン酸化シグナル情報から分類される3つのリン酸化タイプのうち上皮間葉転換(EMT)タイプが増えることが分かった。つまり、EMTタイプは現在使われている薬剤が効きにくく、悪性度の高い性質に変化しやすいという可能性が示された。
そこで研究チームは、EMTタイプで活性化しているAXLというタンパク質に注目した。すでに抗がん剤として使われているパクリタキセルに加えて、AXLの機能を抑える物質を投与すると、細胞増殖が抑制されることが培養細胞とマウスを用いた実験から明らかになった。リン酸化シグナルを解析することで、胃がんの種類を分類できるだけでなく、種類に合わせた治療薬の開発に貢献できることが示された。
足立氏は、「治療の経過に伴いリン酸化シグナルが変化することが明らかになり、がんがダイナミックに性質を変えていることを実感します」と話す。
同様に、大腸がんが肝臓に転移した場合についても、リン酸化シグナル解析を行った結果、手術後の化学療法中に再発した場合にPAK1という酵素が活性化していることが分かった。ところが現在、PAK1の活性を抑える治療薬は実用化されていない。そこで、PAK1の活性化に関わる別のタンパク質であるPI3Kという酵素に注目した。PI3Kの活性を抑える物質のうち、コパンリシブという薬はリンパ腫の治療ですでに使用されている。実際にコパンリシブを使用すると、大腸がんの増殖を抑えられることが培養細胞とマウスの実験から判明した(図2)。
(https://www.nibn.go.jp/pr/press/20241217_0100.html)
足立氏は、「実は、タンパク質の量についても調べたのですが、よい治療薬の候補は見つかりませんでした。治療薬候補の探索においては、リン酸化シグナル解析は非常に有効だと思いました」と手応えを感じている。
タンパク質の網羅的解析を可能にする質量分析計
リン酸化シグナル解析では、タンパク質を一つずつ調べているわけではない。ヒトの体内には数万種類のタンパク質があるとされているため、一つずつ調べていては切りがない。そこで、細胞に含まれている複数のタンパク質を丸ごと解析し、解析後のデータをコンピュータ処理してどのタンパク質がどれくらいあるかを分析する。採取したサンプルに含まれるタンパク質を網羅的に調べることを「プロテオーム解析」という。
プロテオーム解析を実現しているのが、「質量分析計」という装置だ。質量分析計は物質の質量を精密に測定する装置で、タンパク質やその他の分子の質量を種類ごとに計測できる。
大まかな手順として、まずタンパク質をいくつかのペプチドになるよう消化酵素で分解させる。そのペプチドを液体クロマトグラフィという方法で分離させ、さらにイオン化させてから測定すると、ペプチドごとの質量が分かる。ペプチドがどのタンパク質由来かをデータベースと照合させることで、もとのタンパク質がどれくらい含まれていたのかを明らかにできるのだ。今では約1万種類のタンパク質を測定できると、足立氏は説明する。
足立氏の研究ではリン酸化シグナルを解析しているが、同じタンパク質に対してリン酸化の有無も質量分析計で調べることができる。1個のタンパク質に対して複数のリン酸化部位を持つ場合でも、どこがリン酸化されたかまで区別できる。
足立氏は、「どこがリン酸化されたかによってタンパク質の機能が変わります。リン酸化部位によっては細胞増殖に関わっているものもあるため、そうした部位を高感度で検出できるかが重要になります」と述べ、がん研究においてより詳細なリン酸化シグナルの解析が求められていると訴える。
こうした要望もあり、従来に比べて高性能化した質量分析計も登場している。がん患者から採取できる腫瘍サイズは非常に小さいが、最新機種では微量な検体からでも豊富なリン酸化データが得られるようになっている。
「現在は約2万カ所のリン酸化部位を分析できますが、実際の細胞ではこれ以上のリン酸化部位が存在しているはずです。最新の高感度の質量分析計を使いこなすことで、より多くのリン酸化データが得られるかもしれません」(足立氏)
また、今後はさらに検体数が増えることが想定されており、処理スピードも劇的に向上していくことが期待されている。
プロテオーム解析で医療の質の向上と医療財政に貢献
質量分析計を用いたリン酸化シグナル解析により、がんの多様な性質をより詳細に把握できるようになってきた。足立氏は、「将来的には、患者さんに薬を投与する前や投与直後にリン酸化シグナル解析を行い、リン酸化シグナルのタイプに合った薬を投与する精密医療の実現に、我々の技術や発見が活用されることを願っています」と期待を寄せる。「患者さんの状態に合わせてより適した薬を投与することができれば、医療の質が向上するだけでなく、医療財政にも貢献できると思います」。
足立氏の研究チームでは、がんを含めた疾患の治療薬候補の探索だけでなく、疾患の進行の指標となるバイオマーカーの探索も行っている。「血液や尿には、細胞から分泌された細胞外小胞というものがあります。細胞外小胞の内部には細胞由来のタンパク質などが含まれており、それを解析することでがんの早期診断をしたり、神経変性疾患のバイオマーカーにしたりできないか、研究を続けています」と今後を見据えた多面的な研究の内容を説明する。
最後に足立氏は、質量分析計の進化と今後の医療の進展について、次のように述べた。
「質量分析計はもともと分析化学分野で開発されたものですが、近年の著しい進化によって生物学的研究にも用いられ、治療薬の探索、バイオマーカーの探索など医療の役に立つ技術になってきました。医学、薬学、化学という分野をつなげて新しい価値を見いだす研究に私自身は興味深いと感じています。今後も若い人たちが入ってきて、プロテオーム解析を活用した疾患研究による診断、治療、創薬の新たな開発を通じて医療を発展させてほしいと願っています」
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参考文献
- 1)国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所 プレスリリース「高精細リン酸化シグナル解析により胃がんの治療標的を同定~治療の経過に伴う胃がんの悪性化の実態も明らかに~」
https://www.nibn.go.jp/pr/press/2024-1002.html - 2)国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所 プレスリリース「今まで根本的な治療法のなかった悪性度の高い大腸がん肝転移の新たな治療法開発に資する発見! リン酸化シグナル情報を用いた薬剤選択法も開発」
https://www.nibn.go.jp/pr/press/20241217_0100.html
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