世界中に大きな影響を与えた新型コロナウイルスのパンデミック。企業でテレワークが推進されたり、飲食店に時短営業や休業が要請されたり・・・。コロナ下では、さまざまな移動・行動の自粛を求められているが、ワクチンが驚異的な早さで開発されたことも特徴の一つだった。
実はワクチン開発に大きく寄与したのが、サーモフィッシャーサイエンティフィックのクライオ電子顕微鏡。クライオ電子顕微鏡を用いた単粒子解析法によって、タンパク質の立体的な構造を迅速に解明することに成功したのだ。
2020年の春にはウイルスの構造を把握していた
ウイルスの表面には、スパイクと呼ばれるトゲのようなものがたくさんある。このスパイクを介してウイルスが人や生物の細胞にくっ付くことで、細胞内に侵入し感染する。
しかし、このスパイクの構造を模倣した疑似スパイクを作製し、あらかじめ体内に取り込んでおけば抗体を作らせることができる。これがワクチンの動作で、事前に抗体が作られていることでウイルスが入ってきても感染を防げるようになる。
そのためにはスパイクの形状把握が必要だが、それをサーモフィッシャーの自動化クライオ電子顕微鏡が行ったわけだ。
新型コロナウイルスが広く知られるようになったのは2020年2月だが、サーモフィッシャーの自動化クライオ電子顕微鏡を用いることでその1カ月後にはウイルスの構造を把握。これを元に製薬会社がワクチンを開発し、短期間の治験を経て2020年8月にはFDAにより緊急使用が承認されることになった。
進化し続ける「クライオ電子顕微鏡」
クライオ電子顕微鏡法は、2017年にノーベル化学賞を受賞した技術であり、サンプルの作製、データの取得、三次元の解析を組み合わせたもの。サーモフィッシャーでは、このデータ取得ステップで使用する自動化クライオ電子顕微鏡を先駆けて開発し、2007年に販売開始した。この革新的な自動化クライオ電子顕微鏡シリーズは、スループットを格段に向上し、単粒子解析法によるタンパク質・ウイルス構造解析の研究に大きく貢献した。
製品化後も改良は続けられ、現在の最新モデルは第4世代の「Thermo Scientific Krios G4」と呼ばれるものだ。
「従来の透過型電子顕微鏡には生物試料を自然な状態で観察するのは難しいという問題点がありました」と営業部のアカウントマネージャーである甲斐翼氏は話す。
その要因は、主に3つ。
1つ目は、「乾燥すると縮んで変形してしまう試料があること」(電子顕微鏡は真空の装置なので、水分があると蒸発し、乾いてしまう)。2つ目は、「熱に弱い試料ではダメージを受けて変形したり壊れたりすること」(試料に電子線を当てるため、熱ダメージが発生する)。3つ目は、「生物試料が軽元素だと、イメージが不鮮明になること」(電子顕微鏡の原理上、軽元素が多いと画像にコントラストがつきにくい)。
こうした問題を解決するために、従来の電子顕微鏡ではコーティングや染色をしてコントラストを高めたり、水分を抜いて樹脂に埋め込んだりと、前処理を行っていたが、「前処理は少なからず試料に影響を与えるため、本来の微細構造を観察するのは難しいなどの問題は残っていました」(甲斐氏)
これに対して、クライオ電子顕微鏡法では試料を凍結させる手法を採用。「Krios G4」では、熱ダメージを抑えるハードウェア、ソフトウェアの開発、コントラスト向上のための最適なレンズ設計、さらには自動試料搬送機構を含む自動化クライオ電子顕微鏡として、凍らせた試料を、限りなく自然の状態で観察できるようになり、さまざまな分野へと活用場面が広がっていっている。
進む新薬開発や素材開発への活用
今、サーモフィッシャーのクライオ電子顕微鏡は新薬開発の現場に多く導入されている。タンパク質の立体構造に基づいて薬をデザインするなど、研究に幅広く活用されているわけだが、国内では、2021年5月に中外製薬が導入している。
「他の分野では、半導体やマテリアルサイエンス、素材の開発にもクライオ電子顕微鏡は活用されています」と話すのは、サーモフィッシャー 同 シニアダイレクターである吉原辰也氏。
「具体的には、ポリマー、電池、金属有機構造体(MOF)、触媒、活性金属などの研究開発分野で、広範な活用が期待されています。今後は、生物分野だけでなく金属や化粧品などのソフトマテリアルでの活用が増えることも考えられます。これらの需要は高かったものの、従来の電子顕微鏡では対応できなかったものです。ミクロな視点から素材を研究することが、例えば、環境負荷に配慮した素材の軽量・高強度・長寿命化などにつながり、カーボンニュートラルの実現に向けたGX(グリーン・トランスフォーメーション)に貢献することができればと思います」(吉原氏)
新型コロナワクチン開発を裏側で支えるなど電子顕微鏡をリードするクライオ電子顕微鏡には今後、さまざまな分野で構造を明らかにし、ビジネスを新たな次元へ引き上げてくれることが期待されている。
「蚊の足の先にある爪」は切れる?
蚊の足を見たことがあるだろうか? 夏に飛んできて人を刺して血を吸う、あの蚊である。それを、サーモフィッシャーのラボで見せてもらった。ラボは広く、多くの電子顕微鏡が並んでいる一方で、中央には簡単な研修などが行われるのだろう、椅子が数列並んでいる。
「これから、蚊の足の先にある爪を切り、回収します」
サーモフィッシャー 同 フィールドアプリケーションズ サイエンティスト 宗兼正直氏はこともなげに言うと、蚊をセットしたステージを微細加工が可能なイオンビーム搭載型の電子顕微鏡に入れた。モニターに映し出された蚊がみるみる大きくなり、足の先が大写しになる。それはサボテンのような、食虫植物の葉のようなものに包まれており、そこから爪が伸びている。
そして、宗兼氏はイオンビームを画面上で走査し、爪の先端を切り落とした。回収された微小物は透過電子顕微鏡で観察に用いられるという。数ミクロンの世界での出来事に、ただただ驚くばかりであった。