椎名武雄氏(2009年、撮影:横溝敦)

 日本IBMを外資初の1兆円企業に成長させた椎名武雄氏(1929~2023年)。外資企業に対するアレルギーは強く、嫌がらせ的な政策の被害を受けた。この時、椎名氏が取った戦略は、闘うことではなく、日本社会の一員になる道だった。

外資の壁を崩した“日本化”戦略

 日本IBMの中興の祖、椎名武雄氏は1975年、45歳の若さで社長に就任する。就任直後は業績が伸び悩んでいたが、その後成長軌道に乗せることに成功し、1987年には1兆円企業の仲間入りを果たす。外資系企業が売上高1兆円に達したのはこれが初めてのことだった。

 この成功をもたらしたのが、「Sell IBM in Japan, Sell Japan in IBM」(日本にIBMを売り込むと同時に、IBM=本社に日本を売り込め)という椎名氏の号令である。日本市場の特殊性を米本社に理解させ、市場環境に対応した施策を打ち出した。そしてもう一つが日本IBMの日本企業化だった。

 1970年代の日本にはまだ外資アレルギーがあった。また通産省(現経産省)も国産コンピューター優遇策を取り、日本IBMに対しては特許開放や販売制限などで手足を縛った。

 現在の米国企業の多くは、日本市場の閉鎖性を改善させたい時、すぐに外圧を使う。政治力を背景に市場開放を迫る、売り上げを保証させる等々、さまざまな手段を用いて自分たちの要求を通そうとする。

 しかし椎名氏は、こうした力による解決を目指さなかった。椎名氏が出した結論は「外資ということで嫌われるなら、日本企業になればいい」というもの。そして始めたのが「天城会議」だった。

 静岡県伊豆市にある日本IBMの施設「天城ホームステッド」に、日本を代表する経済人や学者、官僚らを招き、自然に囲まれた環境で数日間にわたる合宿形式のセミナーを開催した。

 企業が主宰するセミナーのため、通常なら自社製品の売り込みに使いたくなる。ところが椎名氏は天城会議を営業の場とはしなかった。その代わりに日本経済の将来像や産業構造の変化、情報化社会の可能性といった、未来の日本、社会、経済についてのセミナーであることを徹底した。

 これは、「日本IBMは日本社会に貢献する日本の会社である」との椎名氏の宣言でもあった。

 さらに椎名氏が重視したのは、参加者が講師から学ぶことではなく、講師とともに議論することだった。これによって、参加者同士の共通認識を深めていき、同時に外資に対するアレルギーの希薄化を図った。狙い通り、参加者は椎名氏を、「黒船の船長ではなくわれわれの仲間」と思うようになっていった。そして日本社会は日本IBMを受け入れた。

 2000年10月に日本経済新聞に掲載された「私の履歴書」でも、椎名氏は次のように綴っている。

〈講演会で話をしたら、一人の聴衆に言われた。「椎名さんの話を聞いていると日本IBMが外資系企業であることを忘れてしまう」〉

 椎名氏にしてみれば、してやったりの瞬間だっただろう。こうして日本における市民権を得た日本IBMは業績を大きく伸ばし、米本社から「huge success(偉大なる成功)」と呼ばれるまでになった。

日本IBM幕張テクニカルセンター(写真:日刊工業新聞/共同通信イメージズ)

大型機の王者を襲った「ダウンサイジング」

 しかし順風満帆だったのは1980年代まで。90年代に入ると日本IBM、そして米IBMを嵐が襲う。1990年度決算で、日本IBMは2割の営業減益となる。91年度は3割減益、売り上げも落とした。米IBMの91年度決算に至っては、創業以来初の赤字に転落した。

 原因は、ダウンサイジングである。1980年代に入ると、パソコンの性能が急速に上がっていき、1世代前の大型コンピューターと遜色ない機能を持つまでになった。それでいて価格は圧倒的に安い。大型機からパソコンへのシフトが一気に進んでいった。そうなると、大型コンピューターで覇権を握っていた巨人・IBMはその大きさゆえに方向転換に時間がかかる。それで業績が急速に悪化していった。

 そこで椎名氏は、1991年初めに「サービスカンパニー」への転身を発表する。これまでは大型機の販売・リースが中心でそれに付随して周辺機器やアプリケーションを販売していたため、収益の大半を大型機が稼いでいた。それを180度見直し、顧客の課題解決(ソリューション)を事業の中心に置き、必要な機器を販売・リースする方式へと切り替えた。

 これは全世界のIBM共通の方針変更だったが、日本IBMはそれを徹底するために組織の大幅な変更に踏み切った。

 それまでは、販売する製品ごとに担当営業部があったが、1992年1月、製品別ではなく企業の売り上げ規模別に営業を分割。大企業を担当する産業システム事業本部、中小企業を担当する情報システム事業本部、保守サービスなどを担当するサービス・ビジネス事業本部の3事業本部制となった。

 当時、筆者は勤務していた雑誌社で臨時増刊号『一冊まるごと日本アイ・ビー・エム』の編集を担当し、変わりゆく日本IBMの姿をかなり綿密に取材した。この段階ではサービスカンパニーへの転身がうまくいく保証はどこにもなかった。筆者は、「巨艦がそんな簡単に変わることなどできるのか」と、疑問視もしていた。

 しかし取材した椎名氏をはじめ、役員や社員は「このままでは自分たちは生き残れない」と口をそろえた。それほどまでに日本IBMは追い込まれていた。同時に不退転の決意で臨んでいた。

 椎名氏はこの組織変更にもう一つの狙いを込めた。椎名氏が社長に就任したのは1975年。すでに17年目を迎えていた。しかもダウンサイジングで事業環境は大きく変わった。後継者へのバトンタッチを真剣に考えなければならないタイミングを迎えていた。

 そこで3事業本部のトップに、次期後継候補と目されていた3人を据え、最後の社長レースを競わせることにした。そして1年後、椎名氏は社長の椅子を、産業システム事業本部長だった北城恪太郎副社長に譲り、会長に就任した。18年間の社長生活だった。

リストラを引き受けた“最後の仕事”

 椎名氏の社長としての最後の仕事は、人員削減を含むリストラだった。自分が悪役になることが、北城氏へのはなむけだった。実際、北城氏の社長初年度は、リストラ処理費がかさんで赤字転落するが、翌年以降はV字回復、再成長軌道を歩み始める。北城氏が会長になった後の2001年度には1兆7000億円の過去最高売り上げを記録している。

北城恪太郎氏(2007年、写真:共同通信社)

 ちなみに北城氏は、2003年から4年間、経済同友会の代表幹事を務めている。100%外資の経営者が日本の経済3団体(同友会、経団連、日本商工会議所)のトップに立ったのはこれが初めてのこと(北城氏の1代前の小林陽太郎氏が社長を務めた富士ゼロックスは外資との合弁会社)。これも椎名時代から始まった日本IBMの日本企業化がうまくいったことの証左といえるだろう。

 さて、北城氏に社長を譲った椎名氏は、99年まで会長を務め、その後最高顧問に就任する。通常、最高顧問というと「上がり」のポストだが、暇になったわけではない。HOYAや商船三井など、いくつもの会社の社外取締役を引き受けたからだ。

 中には海外の会社もあった。今でこそ社外取締役はコーポレートガバナンス上からも必須となっているが、当時はそういう状況ではなかった。しかも選ばれるのはその会社の社長・会長の知己ばかり。仲がいいから、取締役会が紛糾することもない。

 椎名氏の場合も、HOYA、商船三井など、そのトップと親しいケースが多かった。だからといって、おとなしくしている椎名氏ではない。どんな時も自分の意見を隠さず、議論することもいとわない。ネアカの椎名氏が加わることで、談論風発となり、取締役会が活性化する。それも椎名氏が社外取締役に引っ張りだこだった理由の一つだ。

 椎名氏は2023年、93歳でこの世を去る。晩年は病と闘う日々だったが、それまでは常に人に囲まれる生活だった。パーティーでも椎名氏の周りには人が集まり、笑い声が絶えなかった。外資企業だからといって日本の経済界に距離を置くのではなく、むしろ積極的に飛び込んでいく。それが間違っていなかったことを、この風景が何より雄弁に物語っていた。

【参考文献】
「私の履歴書・椎名武雄」(日本経済新聞、2000年10月掲載)
「一冊まるごと日本アイ・ビー・エム」(月刊経営塾臨時増刊、1992年7月発売)