明治天皇
歴史上にはさまざまなリーダー(指導者)が登場してきました。その中には、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。
天真爛漫な性格
伊藤博文(1841~1909)は百姓の子に生まれましたが、明治18年(1885)には初代の内閣総理大臣に就任します。この豊臣秀吉並みの破格の出世の背後には博文が長州の出身であり、いわゆる長州閥の恩恵を被っていたことは既に述べました(拙稿「『子分を作らないことが、俺の長所』初代総理大臣・伊藤博文に派閥が出来なかった納得の理由」)。
明治18年、5月20日、『今日新聞』において「日本の現代十傑」と言う人気投票の結果が掲載されていますが、博文は「政治家」としては最高得点(927点)を得ています。ちなみに最も点数が高かったのが「著述家」の福沢諭吉でした(福沢は1089点)。博文は国民的人気があったのです。その理由の1つとしては、博文の天真爛漫な性格があったと思われます。
博文は明治天皇から菓子などを頂戴すると大磯(同地には博文の別邸・滄浪閣があった)付近の百姓や漁師にそれらを与えたのでした。また滄浪閣には料理屋の女将などが芸者を引き連れて遊びに来ることがありましたが、そうした時、博文は林間で目隠しをしつつ子供のように遊ぶこともあったとか。博文に国民的人気があったことは先述しましたが、それは博文の無邪気さもあったと思われます。
博文とよく対比される長州出身の山縣有朋には、博文のような振る舞いはできなかったでしょう。福沢諭吉の婿養子で実業家の福澤桃介は、短剣を提げた博文が芸者に取り囲まれて得意になっている様を新橋か赤坂かで目撃して(伊藤というのは世間で大政治家のようにいうが、案外つまらん奴だ)と感じたとのこと。
1896年1月、小田原滄浪閣におけるの伊藤博文と山縣有朋
しかし、筆者が思うに「大政治家」であるにもかかわらず、子供のような無邪気さを持っているところに博文の凄さがあると言うべきでしょう。博文には可愛げがあったと言えます。(俺は大政治家だ)と得意顔して威張り腐っている政治家よりは博文の方が断然良い。博文は明治天皇の大変なお気に入りでした。天皇は博文を側近くに置いて何でも相談していました。
明治天皇の御前においては……
例えば日露戦争開戦の直前ー天皇から博文には「戦争中は東京を離れず、自分の左右にあって外交および国務を輔佐せよ」とのご命令があったと言います。日露戦争において、アメリカに渡り日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉を担った金子堅太郎に対し、博文は「僕が行かれれば君には頼まない。自分は陛下から右のような御沙汰を受けているから、僕は行きたくても行けない」と語りました。明治天皇の博文に対する信頼の深さというものがよく分かります。
明治天皇の御前においては山縣有朋や松方正義(薩摩藩出身。大蔵大臣や総理を務める)などは自らの言動を慎み、恐縮して天皇のお言葉を聞くのが常でありましたが、博文はそうではありませんでした。博文は天皇の御前でも大声で話し、憚らずに議論し、時に哄笑したのです。ざっくばらん(遠慮や気取ることなく、心をさらけ出して率直に接する)な博文の態度が明治天皇の御心を掴んだのではないでしょうか。
博文は明治42年(1909)10月26日、ハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺されますが、博文の死は天皇を大いに落胆させました。
桜庭理奈氏(国際コーチ連盟 ACCコーチ)は「一流のリーダーに共通することは、素直さとしなやかさ」として「リーダーといえど、少しおっちょこちょいで忘れっぽい、仕事だけではなくプライベートで没頭できるものがある、困った時に躊躇わずにメンバーに頼ってくれるなど、そんな完璧ではないところが人間らしさ、かわいらしさに感じられて、周りから愛されることに繋がります」と述べています(同氏「一流のリーダーに共通することは、素直さとしなやかさ~1,000名のエグゼクティブ・コーチングを担当した桜庭理奈が考える一流のリーダーの特徴~」『note』2024・5・25)。
福澤桃介は芸者に取り囲まれて得意になっている博文を見て(つまらん奴だ)と感じたと言いますが、そうした博文の「完璧ではないところが人間らしさ、かわいらしさに感じられ」ると言うこともあるでしょう。リーダーというものは厳格で完璧であれば良いというものではないのです。さて博文の睡眠時間は短く、3、4時間であったとされます(時に昼寝はしていたようですが)。それでも目が覚めると「元気旺盛」、気分は常に「快活」であったというから凄いものです。
(主要参考・引用文献一覧)
・中村菊男『伊藤博文 (三代宰相列伝)』時事通信社、1958年
