住友化学 DX推進室部長の西野信也氏(撮影:榊水麗)

 2026年3月期の純利益予想を450億円に上方修正した住友化学。既存事業が堅調な中、現在同社は、新事業開発を目指す全社DXにも注力している。

 住友化学のDX戦略は、素材のデータを分析するマテリアルズインフォマティクス(MI)の技術を全社展開することで、各部門の業務プロセスをデータ駆動型に変革している。研究者やコンサルタントなどを経て、同社で研究開発部門のリーダーも務めたDX推進室部長の西野信也氏に、ものづくりとデジタルの融合による新事業開発「DX3.0戦略」の全貌と、さらにその先にあるビジョンについて聞いた。

不況期にも「計算科学」を続けてきた会社

――西野さんはこれまで、研究やコンサルティングなど多様な領域を経験しています。なぜ住友化学で働こうと考えたのですか。

西野信也氏(以下、敬称略) 私はこれまでのキャリアで、およそ2~3年ごとに職場を変え、新しい仕事に就いてきました。職場で身に付けた知識や技術を使って、次にしたいことへの挑戦を繰り返し、自分の成長につなげることを望んでいます。

 住友化学に入社する前、私はデータサイエンスを用いた材料の開発、いわゆるマテリアルズインフォマティクス(MI)に関する国の大きなプロジェクトに携わっていました。当時ちょうどMIという言葉が世の中の注目を集め始めたころで、日本はこの分野に早く着手しなければ世界に後れを取る、という危機感を持っていました。

 そこで、そのプロジェクトが一段落したところで、次は材料開発でデータサイエンスを使う企業で働きたいと思い、探したところ、住友化学に行き着きました。

 実は住友化学は、日本有数の「計算科学」企業であり、材料開発に大型計算機を用いたデータ分析を行っています。こうした費用のかかる研究開発は、景気がいいときは多くの企業が実施しますが、いったん景気が悪化すると真っ先に予算がカットされる分野です。しかし、住友化学は好不況の波に関係なく、開発を続けていました。その事実を知ったことで、ここで働きたいという気持ちが強くなり、ご縁があって入社を決めました。

――住友化学に入社し10年目に入っています。過去の職場と比べ在籍年数が長いようですが、何か心境の変化があったのですか。

西野 住友化学の社内では、ちょうど2~3年ごとのタイミングで新しい仕事に就かせてもらっているからです。

 入社後は材料開発の部署に所属していましたが、研究の節目を迎えた約3年後に、研究開発(R&D)で用いていたデータ分析の手法を全社に展開してほしいという会社からの打診があり、それを引き受けていったん残ることにしました。

 それがまた一段落した後に、今度はデータマネタイゼーション(※)のビジネスをやってくれないかというオファーが来ました。さらに、その次はR&Dから生産、サプライチェーン、バックオフィスを含めた全社のDXを推進してほしいと言われ、現在に至ります。

※企業や組織がデータを資産として活用し、事業活動に対する付加価値を創出する仕組み。

 会社の幹部は私のキャラクターをよく分かっていて、だいたい2~3年ごとの節目に合わせて、私が興味を持ちそうなテーマを提示してくれています。うまく転がされたのかもしれませんね。しかし、今のDX推進には大きなやりがいを感じており、ありがたく思っています。

フレームワークをつくるのが得意

――全社のDXをリードするには、ビジネスの構造を理解しなければいけないと思います。研究部門が長い西野さんは、どのようにして学んだのですか。

西野 確かに自分一人では不可能です。私が恵まれていたのは、DX推進室では複数のチームを持つことができたことです。生産はこのチーム、サプライチェーンはこちら、というように各チームが分担して業務に当たっており、私にとっては恵まれた環境で知識も吸収できていると思います。

 私はもともと、研究職やコンサルタント職の経験から「フレームワークを作る」ことは得意です。どのようなジャンルでも、アジャイル(機敏)に進めるための仕組み作りや、課題の抽出を素早く行うことができます。仕事を分解して体系化し、課題を浮き彫りにして、分からないところはチームのメンバーに聞きながら、一歩ずつ進めています。

 こうして全社DXの基盤を整える中で、段階的に戦略を発展させていきました。

西野 2019年から本格的に開始した当社のDXは、3つのステップで進行しています。最初の「DX戦略1.0」は、当社の工場、R&D、サプライチェーン、バックオフィスの4領域における生産性の向上でした。2021年からは「DX戦略2.0」の取り組みも開始し、事業の競争力強化に乗り出しました。そして2022年からは、現在も続く「DX戦略3.0」として、データ活用などによる新たなビジネスモデル構築による価値創造の段階に入っています。

――住友化学は、デジタルでどのような独自価値を生み出すことができると考えていますか。

西野 デジタルによるビジネスの革新は、前職でソフトウエアの開発をしていたときに痛感していました。デジタル化によってお客さまへのデリバリーのスピードは格段に上がり、その成果がお客さまに受け入れられるかどうかのフィードバックもとても早い。改善のサイクルを高速で回すことができるのです。その最前線にいるのが、いわゆる欧米のビッグテック企業です。

 そうした企業に対して、これから日本企業がデジタルだけで立ち向かっても、勝つことは難しいと思います。そこで、デジタルに、人や現場に蓄積されているドメイン知識を掛け合わせて、価値を高めることが勝ち筋だと考えています。当社でいえば、材料開発にデジタルを融合させる形です。

 実は私は、MIの全社展開を推進する際に、脅威となるシナリオの1つとして、ビッグテック企業の新規参入を取り上げていました。こうした企業が独自のアルゴリズムを開発し、当社の事業領域を浸食するシナリオを社内に提示していたのですが、現実はそうはなりませんでした。ものを作る部分はデジタル化が簡単ではなく、逆にそこに強みがある当社にとっては、優位に立つことができるポイントだと考えています。

データマネタイズのための意識改革

――住友化学の「ものづくり」の強みをデジタルと組み合わせて新しい事業につなげるには、新しい知見も求められます。アイデアの事業化は、どのような仕組みで進めていますか。

西野 DX戦略3.0の一環として進めている、デジタルと既存事業を掛け合わせた新規事業は、社内公募による専任チーム「Value-nauts(価値の探求者)」が中心となって推進しています。多様な専門性を持つメンバーで構成され、新規事業のアイデアを絞り込んで事業化の企画を行います。

 こうした取り組みは、製品を作るだけでなく、デジタルを活用して顧客に新しい価値や体験を提供する「ものづくりからことづくり」への転換を意味します。

 ただし、「ものづくりからことづくり」と言うのは簡単ですが、実践したことがないところからいきなり始めるのは無理があります。そこで、新規事業開発のためのフレームワークを新たに開発し、アイデアを発散させながら議論し、最終的に収束させるための仕組みを取り入れました。

西野 この新規事業開発のプロセスでは、データマネタイゼーションの基本的なパターンに照らし合わせて、事業アイデアを検討し、その中で当社の強みをどう生かしていくかを整理します。そうやって、再現性の高いフレームワークを用意しました。

 しかし、いくら枠組みや仕組みをつくっても、成果を出すことができるかは、人の力にかかっています。DX戦略3.0の取り組みを始めて約1年で、最初のサービスをリリースすることができたのは、メンバーの意識改革と努力の結果です。

 2024年7月に一般公開した第1弾の新規事業は、天然素材のデジタルネットワーキングのプラットフォームである「Biondo(ビオンド)」です。世の中の天然素材には、まだ知られていない機能性成分が含まれていますが、その価値が認識されていないケースもあります。

 Biondoは、そうした天然素材に対して当社の高い分析技術で機能を明らかにし、データベース化します。このデータベースを公開することで、売り手である天然素材・資源の保有者は新しいセールスポイントを発見でき、買い手は知らなかった素材の機能に注目し、選別の参考にすることができます。

 このBiondoは、売り手と買い手のマッチングプラットフォームとして、当社の分析技術、データベース開発、マッチングサービス開発の3つが融合した「もの+こと」の新たな領域に踏み出した新規事業です。デジタルサービスらしく、お客さまからのフィードバックを分析しながら、サービスのブラッシュアップにも着手しています。

 また、Biondo以外にも、すでに事業化に向けて着手しているものも含め、遠くない将来リリース予定のプロジェクトが複数進んでいます。

全部門でデータ活用人材を育成

――人材育成については、DX教育のプログラムを取り入れているのですか。

西野 パッケージ化されたものがあればそれを使いたかったところですが、当社のような材料メーカーにピタリと合うものは存在しませんでした。一から作るしかないということで構築したのが、現在の仕組みです。

 今では国や大学などで同様のプログラムが存在しており、それらを見ると、当社のプログラムと基本は同じなので、これまでの取り組みは正しかったと認識しています。

――材料メーカーのDX人材育成は、他とはどう違うのですか。

西野 最大の違いは、「分析するデータが少ない」ことで、「スモールデータ問題」と呼んでいます。金融や小売りなど大量のデータが存在する業界と違い、材料の世界では、少ないデータでいかに分析するかが勝負です。

 こうした事情があるため、一般的なデータサイエンティストの方が活躍できる場を提供するのは難しく、採用を試みても応募もほとんどありません。そこで、外部のDX人材獲得よりも、社内で事業や技術などの現場知識(ドメイン知識)を持つ人材にデータサイエンスの知識を付与する取り組みを強化してきました。

 具体的には、R&D、生産、サプライチェーン、バックオフィスの4領域でDX人材の獲得目標を定め、人材育成プログラムを設けています。それぞれの領域で進み具合に若干の差はありますが、やはり最も速いのはR&D部門です。R&Dは、新しい技術を導入することがもともと業務プロセスに組み込まれているため、データサイエンスへの理解も早いわけです。

 一方、その他の領域は必ずしも新技術にすぐ反応するわけではなく、むしろ誰かが整理した後で、自分の業務に取り入れることがほとんどです。浸透するまでに時間はかかりましたが、全領域で一定数のDX人材を獲得するという方針は変えませんでした。

 独自開発のプログラムも生かし、すでに各領域で数百名ずつのデータエンジニア、あるいはアナリストを育成できています。このDX人材が中心となって、各部門でボトムアップによるデジタル活用の推進が始まっています。

――各部門でボトムアップの動きが進む中、DX推進室のリーダーとして、西野さんはチームメンバーにどんなことを話していますか。

西野 当社のトップが社員に対してデジタル変革の意義を語り、DXの推進体制を整えていることと同じく、私はDX推進室としてのバリューや価値観をメンバーによく話します。

 当社がDXを推進することの意義、そこから生まれる価値はこういうものだということを、メンバーが腹落ちできるまで説明します。同時に、その価値を生み出すための仕組みを用意することも、リーダーの役目です。

 ただし、私が誰かを育てることができるとか、導いていけるとは思っていません。環境は用意できますが、その環境を使って成長したいと思うかは、各人に懸かっています。

 組織はフラットで、誰でも自由に意見を言うことができます。メンバーはそれぞれ主体的に取り組んでくれていると思いますし、その中から次世代のリーダーも生まれてくるだろうと、楽観しています。

サムネイル写真提供:日刊工業新聞/共同通信イメージズ