清水信次氏(2009年、撮影:横溝敦)

 日本最大の食品スーパーチェーンである「ライフ」。東京でも数多くの店舗があるが、元は大阪発祥のスーパーだ。創業者の清水信次氏は戦争で九死に一生を得て復員。そこから企業を成長させたが、その背景には清水氏が貫いた仕事観、大きな原動力があった──。

21期連続増収のスーパー「ライフ」の強さ

「全員に働いていただきます。馬車馬のように働いていただきます。わたくし自身もワークライフバランスという言葉を捨てます。働いて働いて働いて働いて働いてまいります」

 自民党新総裁の高市早苗氏が当選直後の会見で語った言葉。SNSなどでは「時代に逆行している」と非常に評判が悪い。しかしこの言葉を草葉の陰で聞いて大喜びしていたかもしれないのが、本稿の主人公でライフコーポレーション創業者の清水信次氏(1926─2022年)だ。

 スーパー「ライフ」を運営するライフコーポレーションの売上高は8504億円(2025年2月期)で、実に21期連続増収。今期も好調を維持しており、22期連続増収は間違いない。セブン&アイ・ホールディングスのスーパー部門であり祖業のイトーヨーカ堂は業績低迷が続き、本体から切り離すことになったのとは対照的だ。

スーパーマーケットの「ライフ」(写真:日刊工業新聞/共同通信イメージズ)

 スーパーには規模別にいくつかの種類があり、イトーヨーカ堂などの大型スーパーはGMSと呼ばれる。「General Merchandise Store」の略で、食品だけでなく衣料品や雑貨、一部の家電など生活に必要なものの大半を品ぞろえする総合スーパーだ。

 しかしユニクロなど品質と低価格を両立したカテゴリーキラーの登場により、総合スーパーは苦戦が続く。これはイトーヨーカ堂だけでなくイオンも総合スーパー部門は伸び悩み、西友は九州のトライアルホールディングスの傘下に入った。

 だが、食品を中心としたスーパーはまるで違う。セブン&アイ・グループの中でも食品スーパーのヨークベニマルは好調だ。そうした中規模スーパーの中で頂点に君臨するのがライフコーポレーションである。

「清水商店」の再興、業容拡大を図る

 創業者の清水氏の小売人生は戦後すぐに始まった。

 清水氏は1926年三重県津市に生まれた。両親は大阪市で食料品店を営んでいた。1926年は大正15年であり昭和元年。清水氏は同年生まれの経営者で組織する「昭元会」の中心メンバーでもあった。この世代は敗戦時に19歳か20歳。赤紙で召集され戦地で命を落とした人も多い。

 赤紙は旧制大阪貿易学校を繰り上げ卒業した直後の1944年2月に清水氏の元にも来た。当時まだ18歳だった清水氏は、千葉県津田沼の鉄道第二連隊に配属となった。この時の戦友がのちに不動産会社・秀和を設立し、バブル期に不動産王として名をはせた小林茂氏だった。

 軍隊の世界ではいじめが当たり前。まだ10代だった清水氏も、私物を盗まれるなど先輩からさまざまな嫌がらせを受けた。しかしそのたびにかばったのが小林氏であり、2人の親交は小林氏が亡くなるまで続く。小林氏は1980年代に、伊勢丹などの流通株の買い占めに走るが、その遠因の一つが清水氏だった。これについては次回触れる。

 応召に際し、清水氏は死を覚悟していた。外地に送られるのは免れたが、九十九里浜で上陸米軍を迎え撃つ予定になっており、そうなれば沖縄の日本軍のように死屍累々となるはずだった。しかしそれを待たずに日本は敗戦。清水氏の命は長らえた。

 復員後、清水氏は両親が疎開していた津市に行くが、そこでは食べていくことができなかったので、家族を支えるために学生時代を過ごし両親が店を開いていた大阪に戻り闇市商売に精を出す。三重で海産物などを仕入れ大阪で売る。毎日のようにこれを繰り返し、さらには東京にまで商品を仕入れに行くようになる。

 そして、1945年に大阪市天満に親が経営していた「清水商店」を再興し、社長に就任する。ここから清水氏は業容を拡大していく。それを後押ししたのが、GHQとのつながりだった。

 最初は東京・上野のアメ横で進駐軍の横流し物資を仕入れ大阪で売ることから始まったが、その後、GHQと直接取引するようになる。

 飛躍のきっかけになったのが、1950年に始まった朝鮮戦争だった。日本に駐在する米軍も増え、海外からさまざまな物資が入ってきた。その中にはバナナやパイナップルなど、当時の日本人には高級品も含まれていた。そこに清水氏は目をつけた。

 海外産の果物の輸入にはGHQの認可が必要で、その事務局は、現在ミッドタウン日比谷になっている三信ビルディングの中にあった。清水氏はそこに日参し、バナナ、パインなどの輸入・販売割り当て権利を得て大きな利益を上げた。

 その利益をもとに、1956年ライフコーポレーションの前身である清水實業を設立。さらに海外のチェーンストア視察を経て、1961年に大阪府豊中市にライフ1号店を立ち上げた。その後四つ葉のクローバーをシンボルにした店舗は全国に拡大していき、日本最大の食品スーパーにまで成長した。

 その間、清水氏は必死に働いた。従業員に対しても、それぞれの体力に合わせて全力で働くことこそが個人や家族、そして国家に幸せをもたらすと信じていた。

著書『時短は国を亡ぼす』の根底にあった持論

 そんな清水氏が『時短は国を亡ぼす』という本を書いたのは1994年のことだった。

 すでにバブル景気は崩壊し、日本経済の退潮は明らかだった。それでもまだ当時は、あくまで一時的なものに過ぎず、すぐに復活できると信じている人も多かった。戦後の高度成長は続いており、一過性のバブル経済時代を反省するという雰囲気の方が強かったのである。反省材料の一つが「バブル期の日本人は働き過ぎ」というものだった。

 当時よく言われていたのは、「有給休暇をもっと取れ」「残業時間を減らせ」という現代にも通ずる働き方改革で、日本人の労働時間をもっと減らすべきだという考えが主流だった。小中学校でもゆとり教育が採用され、競争が否定され始めた時代だった。

 清水氏はこれに公然と異を唱えた。

「日本が戦後、短期間に復興できたのは、みんなが必死になって働いたからだ。日本には資源も何もない。あるのは人々の叡智と懸命さだけ。今の日本は戦後に続く危機にある。ここから立ち直るには再び必死になって働く以外にない」

 これが清水氏の持論だった。高市氏の「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」を実践してきた。その持論を書籍化したのが『時短は国を亡ぼす』だった。

 根底にあるのは、人と国を愛する心だった。戦後、商売を始めたのも家族を養うためだったが、その後は日本人により豊かな生活を提供するため、そして国をより豊かにし、人々を幸せにするためと、目的の対象がどんどんと大きくなっていった。だからこそ、清水氏は損な役回りでも引き受けた。

日本チェーンストア協会の会長就任が転機に

 ライフコーポレーションは大阪発のスーパー。今では首都圏にも多くの店があるが、1980年代には全国的知名度はほとんどなかった。当然、清水信次という名も知られていなかった。

 名前を知られるようになったきっかけは、1986年に日本チェーンストア協会の会長に就任したことだった。同協会は1967年に設立され、初代会長はダイエーの中内功氏。その後ジャスコ(イオンの前身)の岡田卓也氏やイトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏など、日本のスーパー業界のレジェンドが名を連ねた。

日本チェーンストア協会臨時総会に臨む(左から)清水信次氏、西川俊男氏、渡辺全侊氏、岡田卓也氏、伊藤雅俊氏(1981年10月9日、写真:共同通信社)

 清水氏はその6代目会長だが、企業規模は会長格ではなかった。実際、清水氏の後には西友やニチイ(当時)など、いずれも当時はライフより売上高がはるかに大きい企業のトップが就いている。本来このタイミングで清水氏が就任するはずではなかった。

 なぜ就任できたのか。清水氏が就任した1986年は中曽根康弘内閣のもと、大型間接税(当時は売上税、現在の消費税)導入の論議が本格化していた。小売業界は全員反対だったが、当時の中曽根氏の権威は絶大で、公然と反対は唱えにくい。

 実際、中曽根氏の盟友でありながら中小企業の団体である日本商工会議所会頭だった五島昇氏は、そのストレスもあってか体調を崩し、会頭職を退いた。もちろん、チェーンストア協会会長に自ら手を挙げる人もいなかった。

 そこで以前から売上税反対を明言し、かつ気骨ある清水氏が選ばれたという経緯がある。言葉は悪いがチェーンストア協会は中規模企業経営者である清水氏に役職を押し付けた。

 だが、それが清水氏にとってはプラスに働く。その後、清水氏はチェーンストア業界の論客となり、経済関連メディアの間で引っ張りだことなる。損な役回りを引き受けたことで清水氏は注目を浴び、そして間接的にはライフの成長にもつながった。

(次回に続く)

1986年、日本チェーンストア協会の新会長に就任した清水信次氏(写真:共同通信社)

【参考文献】
『時短は国を亡ぼす』(清水信次著、文春ネスコ)