出所:日刊工業新聞/共同通信イメージズ
太平洋戦争以前、わが国の住宅は、建て主の注文によって図面を描き、それを基に大工や左官などが伝統的な技術によって、現場で一戸ずつ建てるものだった。ところが、戦後、工場で前もって部材を作り、現場で組み立たてる「プレハブ住宅」が登場して、住宅の常識を一変させた。この新しい業態を切り開いたのが積水ハウスである。しかし、材料も工法も在来の木造住宅とは全く違う新しい住宅のパイオニアとしての歩みは、決して楽なものではなかった。
社史研究家の村橋勝子氏が小説顔負けの面白さに満ちた社史を「意外性」の観点から紹介する本連載。今回は積水ハウスを取り上げる。
最初の試作は「掘立小屋」に過ぎなかった
積水ハウスの母体は積水化学工業である。同社は、日本窒素肥料(後のチッソ)の7人の社員によって1947(昭和22)年3月に積水産業の名で設立され、翌年1月、積水化学工業に社名変更、総合プラスチック加工で戦後急成長した。化学メーカーが住宅に着目したのは、新素材であるプラスチックの用途拡大が狙いだった。
当初のプラスチック製品は日用雑貨の類いが多かったが、昭和30年代の初めには、パイプ、雨どい、波板など建材も製造しており、プラスチックの新しくかつ大きな市場として「建築」に食指を動かしていた。
漠然とした目標を現実に近付けたのは、取締役で建材事業本部副本部長の須田一男が京都のアメリカ文化センターで目を通した雑誌『Modern Plastics』に掲載されていた「House of the Future」と題した記事であった。そこには、カリフォルニアのディズニーランドにオールプラスチックで建てられた実験住宅が紹介されていた。
記事に触発されて早速研究に乗り出したが、プラスチックだけで家を作るのは無理と分かり、プラスチックをより多く使った「工業生産物の組立住宅」へと方向転換する。
とはいっても、誰もプレハブ住宅の知識など持っていない。大学の建築学科を卒業したばかりの2人を採用したが、建築現場の実務経験はゼロ。しかし、自由な発想で開発が進められるというメリットもあった。
1959(昭和34)年12月になんとか「0号試作ハウス」を完成したが、掘立小屋のようなものでしかなかった。
悪戦苦闘して、次に作った「セキスイハウスA型」は、サッシを塩ビ板からスチールに変え、軸組は軽量鉄骨、外装はアルミ板だったが、人が住むには、まだまだ問題があった。それから1カ月を経ずして、標準型としてどちらが適しているかを選択するため、平屋建ての「和室タイプ」(17.5坪)と洋室タイプ(14坪)の「セキスイハウスA型」2棟を完成した。これが「鉄とアルミとプラスチックで作られた本格的住宅」としては最初のもので、関係者は努力が実った喜びと解放感にひたり、プレハブ住宅はようやく住宅としてのスタートラインに立った。
「雨漏り」「価格未定」で販売戦略もなし
一応、世に出せる住宅の試作に成功した積水化学工業は、1960(昭和35)年3月、「ハウス事業部」を発足させ、本格的に住宅分野に乗り出した。
プレハブ住宅は、住宅を“商品”として大量生産することに狙いがある。商品であるからには見本が必要と、東京の神田、続いて大阪駅前に展示場を建設して一般に公開した。住宅そのものを商品として展示するという試みは、わが国では初めてのことだった。
物珍しさも手伝って展示場にはどっと人が押し寄せたが、パンフレット1枚あるわけでもなく、値段も決まっていなかった。何も分からないままPRを任された社員は「近代的素材によって合理的に作られたこの家こそ、これからの住宅です」と、ただ大声を張り上げるだけ。冷や汗もののスタートである。
特に困ったのは雨で、雨漏りがひどくなると「ただいま改装中」ということにして、その辺りに椅子をひっくり返しておいた。「どうしても見たい」という客がいると、アルバイト学生を寝かせ、「急病で人が寝ていますから」と急場しのぎをした。
こんな正直な話が社史で披露されるのには訳がある。創業以来、組織・肩書・書類で仕事をしてきたわけでなく、人と人が口で伝え合い、引き受け合って仕事をしてきた実に風通しの良い会社であったこと、さらに、本社が4回移転して、その都度整理したために、昔の資料がなく、創立以来のことをよく覚えている社員が編さんしたのだ。それが逆に、当時をほうふつとさせるリアルな社史になったともいえよう。
雨漏りしようが、価格が未定だろうが、客も厳しい追及はしなかったのは、人気先行、買い気難航で、売り上げには結び付かず、販売実績は5カ月間でわずか8棟。
それでも上野次郎男(じろお)社長は、「今は売れていなくても、そのうち必ず軌道に乗る」と考え、1960(昭和35)年8月、ハウス事業部を「積水ハウス産業」として資本金1億円で独立させ、自ら社長を兼任した。
新会社は誕生したが、プラスチックと住宅では製造法も売り方も違い、海図などない波乱の船出である。その上、営業担当は建築用語も分からない文系出身の素人集団。しかし、社員は「もともと“鉄とアルミとプラスチックの家”に玄人などいない」と、あくまでも前向きで、屋台の焼鳥屋やおでん屋でコップ酒をあおりながらも意気軒高で、悲壮感は露ほどもなかった。もともと「半年ぐらいは給料なしでもやっていける男」というのが採用の内規にあったといわれるくらいで、明日の米代の心配などもなく、夢を追っていけたのである。
そうはいっても、自慢のA型はいっこうに売れない。試行錯誤の中、失敗や客の苦情も多かったが、技術陣は屈せず、経験を生かして改善に結び付け、翌1961(昭和36)年7月、新たに平屋建ての「セキスイハウスB型」を開発。大阪の石切ではB型を導入した分譲団地を完成させて販売を始めた。
「B型」は、客の要望に合わせて自由設計ができ、内装に木材を使うなど、外観・内装共、在来の木造家屋に似ており、シンプルを基本にしつつ高級感もあって、「プレハブは安物」という世間一般のそれまでの認識を改めさせた。また、メーターモジュールをいち早く採用した他、合理性を極限まで追求し「素人でも組み立てられる家」といえるほどであった。
さらに、同年9月に襲来した第二室戸台風は瞬間最大風速84.5メートルを記録したが、「在来工法や他社の被害をよそに、少しの被害もなかった」ことで、思いがけずB型の強度が証明された。
それでも販売面の苦労は続く。石切団地には、設計者の1人である社員がモデルハウスも兼ねて家族と共に住んだが、見学者が次から次へと来て家の中を見られるので、対応も大変で、洗い上げた食器や鍋は底まで磨いておくという気の使い方も必要だった。そんな涙ぐましい努力もあってB型の販売実績は上向いていく。
赤字続きの経営に変革を起こした専務
自信を得た同社は新たに工場を設立、それまで人海戦術によっていた塗装を機械化することで月産300棟を可能にし、重要な部材であるパネルも自製して、品質管理の向上とコストダウンを図った。B型の開発から数年後には、鉄骨部材の電着塗装を導入して防錆性を高めるなどして、さらに工業化住宅としての品質向上と均質化を実現した。
プレハブ住宅の普及に弾みがつき、大きく成長する契機となったのは、1962(昭和37)年にB型が「不燃組立構造住宅」として住宅金融公庫の融資対象になったことだった。これが、粗悪品とみなされていたプレハブのイメージを変え、購買意欲を高めた。また、銀行の住宅ローンが著しく改善されたこともさらなる追い風となった。
だが、経営的には相変わらずの赤字続き。その上、金融引き締めによる景気後退で、親会社の積水化学工業の体力も衰えてきたことから、新会社創立以来社長を兼任していた上野は、「いつまでも赤字会社の経営を見るわけにはいかない」と1963(昭和38)年5月、住宅事業からの撤退を表明した。
これに反対したのが、積水化学工業専務で、前身のハウス事業部時代から担当役員として自分の分身のように子会社を見てきた田鍋健(まさる)だった。「新事業だから当分の先行投資はやむを得ないが、工業化住宅(プレハブ住宅)の将来性はある」「それなら、お前が行って経営をやれ」といった上野との応酬の後、創立3周年も間近の同年6月、田鍋は社長に就任。強い指導力を持って企業体質の改善に乗り出した。
まず「出向社員の心が、半分親会社に向いているようでは士気が上がらない」と、積水化学工業からの出向社員を移籍させた。この時、一方的に退路を断つのではなく、出向社員一人一人に会って「私を信頼するなら付いてきてほしい」と真情を述べたことが、プロパー社員との一体感、人心の一新につながった。
次に、同年10月、社名の「積水ハウス産業」から「商業」でも「工業」でもないあいまいな「産業」を取って「積水ハウス」に変更、自己の業種をはっきりさせ、意識の高揚を図った。さらに、ガラスやアルミ板をメーカーから直接納入する方式に改めて生産コストの大幅ダウンを実現した。販売は代理店方式から直販方式に転換した。まだまだ知名度が低い上に、施工も伴うプレハブ住宅は、人任せではなく、自分でお客の相談に乗り、責任を持って売るしかなかったからだ。
諸々の努力が功を奏し、社長交代から1年後の1964(昭和39)年の第4期決算では初の黒字を計上、翌5期決算で累積赤字を解消して1割の配当を行うまでになった。さらに、創立10周年を迎えた1970(昭和45)年8月、大阪、東京両証券取引所第2部への上場を果たし、それから10カ月後の1971(昭和46)年には1部に昇格した。
1945(昭和20)年8月の終戦直後に発表されたわが国の全国的な住宅不足数は、420万戸絶対数の不足に加え、老朽化した住宅や店舗の潜在的な建替え需要などを見込むと、戦後の建築需要は底知れぬ大きさであった。
割合短期間のうちに改善された食糧難や衣料難に比べ、住宅問題だけは長い間取り残されたままであったが、そんなわが国の住宅難緩和と充実に、規格化・工業化によって住宅の大量生産を可能にしたプレハブ住宅は、質・量共に大きく貢献したのだ。
<参照社史>
『住まい文化の創造をめざして:積水ハウス30年の歩み』(1990)
