中国の趙雲像 モリオ, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons

 約1800年前、約100年にわたる三国の戦いを記録した歴史書「三国志」。そこに登場する曹操、劉備、孫権らリーダー、諸葛孔明ら智謀の軍師や勇将たちの行動は、現代を生きる私たちにもさまざまなヒントをもたらしてくれます。ビジネスはもちろん、人間関係やアフターコロナを生き抜く力を、最高の人間学「三国志」から学んでみませんか?

本稿は「Japan Innovation Review」が過去に掲載した人気記事の再配信です。(初出:2024年7月31日)※内容は掲載当時のもの

多数の猛者の中で、三国志最強の武将はだれなのか?

 三国志には、屈強な武将たちが登場します。騒乱期の呂布、魏の夏侯惇、蜀では関羽と張飛、呉では太史慈や甘寧など。活躍した時期や地域が違うため、すべての武将がライバルと戦ったわけではないのですが、誰が最強であるかは、三国志ファンなら一度は考えたテーマでしょう。

 歴史上の戦いは、一つとして同一の条件はなく、所属する軍団の指揮官の強さや賢さ、愚かさにも勝敗は左右されます。それでも、当時の武将の強さは全軍の影響力を大きく左右し、猛将がいる部隊は、その武力で敵を圧倒したり、不利な状況を防いだりする。強い武将たちの大活躍がいくつも描かれているのも、三国志の魅力の一つといえるでしょう。

戦闘マシーンの「呂布」、豪勇でならした「太史慈」などの武将たち

 議論の入り口として、書籍『三国志最強は誰だ?(一水社)』と、『「三国志」最高のリーダーは誰か(ダイヤモンド社)』の2冊をまず参照してみます。前者では、多数の武将を「戦闘力」「知力」「財力」「人望」「統率力」の5つの要素で分析しています。

 この書籍の結論として、単純な戦闘能力では「呂布」「太史慈(呉)」を挙げており、部隊指揮能力では「張遼(魏)」を挙げています。この三人は、それぞれ武力が突出していたために、君主からスカウトされていることも共通点です。

 三国志ファンならよくご存じの呂布は、弓術や馬術に優れており、194年の戦いでは曹操軍の夏侯惇を捕虜にするなどの強さを見せています。呉の太史慈は、孫権の兄である孫策に一度敗れて配下になり、その後の活躍で魏の曹操も欲しがったほどの武勇の人でした。

(ただし太史慈は、赤壁の戦いの前年の206年に41歳で病死)

 一方、書籍『「三国志」最高のリーダーは誰か』では、武将を7つのタイプに分けています。

 それぞれのタイプで選出されたのは「飛将=呂布、公孫瓚、馬超」「猛将=夏侯淵、張飛」「勇将=趙雲、甘寧」「名称=曹仁、張コウ」「智将=司馬懿、杜預」「忠将=夏侯惇、周泰」「義将=関羽、張遼」です。

 選出されている将をさらに絞り込むため、ここでフィルターを追加してみます。「戦い抜いてなお、天寿を全うした」「後方支援などではなく、前線で活躍した」の2つです。

「戦い抜いてなお、天寿を全うした」といえるのは、「馬超」「甘寧」「趙雲」「曹仁」「周泰」「夏侯惇」「司馬懿」「張遼」の4人であり、「前線で活躍をつづけた」の追加条件をクリアするのは「甘寧」「趙雲」「曹仁」「周泰」「司馬懿」「張遼」となるでしょう。

 夏侯惇は、隻眼になってから後方支援が多くなったため除外。また、上記の中で「司馬懿」は、純粋な武将ではなく、戦闘指揮官としての側面がほとんどなので除外します。すると、

(魏)「曹仁」「張遼」
(蜀)「趙雲」
(呉)「周泰」「甘寧」

 となり5名が残ります。これは既にかなり納得感のある結果だと思われます。ここであえて、もう1つのフィルターを追加してみましょう。「活躍した時期が早い」「集団が小さな頃から武勇を発揮していた」ことです。理由は、大軍は自然に有利で勝ちやすく、小規模の劣勢軍団では、戦闘はより厳しいものになるからです。

「集団が小さな頃から武勇を発揮していた、最強の武将とは誰か」

 魏の曹仁は、曹操配下で193年頃から活躍を始めており、袁紹との大戦争(官渡の戦い、200年)のかなり以前から戦いを始めています。曹仁は、集団が小規模な頃から武勇を発揮していたという条件にぴたり一致します。

 趙雲も200年以降の劉備がまだ流浪の小軍団だったころから活躍し、劉備が皇帝になるまでの苦難の道のりを共に奮戦し、関羽、張飛、劉備の死後も戦い続けたという点で、条件に一致します。

 呉の二人の武将のうち、周泰は孫権の兄の時代から活躍を始めています。呉の軍団が小さな頃に全身に傷を負いながらも孫権を助けたこともあり、のちの赤壁の戦いでも活躍をした古参武将かつ極めて強い武将だといえます。

「集団が小さな頃から武勇を発揮していた」というフィルターで脱落するのは、「張遼」「甘寧」の二人となり、最強のセレクションに残った3名は「曹仁、趙雲、周泰」となりました。

魏の曹仁、蜀の趙雲、呉の周泰はいずれも最強に相応しいが…

 3名は、いずれも最強の武将にふさわしい人物だといえます。一方で、この最終選定に問題があるとすれば、いずれの武将も「守備的な任務」が多い印象があることでしょうか。攻撃に加わる武将のほうが、守備的な戦闘に配備されるより生き残りやすいのは道理です。

 キャリアの開始時期を考えると、ダントツに曹仁が早く、なおかつ生涯を通じて戦い続けたことを考えると「最強、No.1は曹仁」といえますが、曹仁がキャリアの最後を敗戦で終えていることを考えると、「呉の周泰こそ最強、No.1の武将ではないか」とも思えます。

 趙雲は、長坂の戦い(208年)で魏の大軍に追いつかれた状態ながら、劉備の息子を救い出して戻るなど、極限状態でもその武勇と聡明さを失わない活躍をしています。その意味で、この3名からさらに絞り込むのは非常に難しい。

 魏の曹仁、蜀の趙雲、呉の周泰の3名を選出しこの段階で、あえて追加の2名の武将を挙げてみます。魏の徐晃と、呉の朱然です。理由は関羽の敗死と関連があることです。

 関羽の最後の戦闘である樊城では、樊城を守る魏の曹仁をギリギリまで追い詰めています。

 樊城を救出するために、魏の司馬懿が呉に蜀を裏切らせる計画を立て、救出の指揮を武将の徐晃にさせて成功しています。呉の朱然は、敗走する関羽を生け捕りにして、関羽は呉軍によって処刑されました。

 もし樊城の救出が成功しなければ、関羽は曹仁を破っていた可能性があり、最強の武将は関羽となったかもしれません。現実には、司馬懿の知恵と徐晃の武勇が分岐点を作り関羽を破り、朱然は関羽を生け捕りしたのち30年間近く、呉の最強の武将として活躍しました。

 徐晃は曹仁を救出した戦いでも勝利しており、戦い続けてなお天寿を全うしたことでも最強の武将の条件を満たしています。呉の朱然は孫権と生まれが同年で、今回の最強武将選定では、「次の世代」として除外します。曹仁と徐晃は、優劣を決めがたい存在です。

 今回結論をあえて出すとすれば、曹操のキャリアの初期、大軍団になる前の状態から武将として活躍を続け、大きな失敗のないままに戦い続けて天寿を全うした曹仁を最強、No.1の武将としたいと思います。

 魏は三国の時代でもっとも版図を拡大した勢力であり、その戦闘も「守りよりも攻撃」が多かったことが、魏の武将を最強に選定する最後の要素と致しました。

逆に、もっともがっかりさせられえた武将は誰か?

台湾の関羽像 写真/pespiero/イメージマート

 これは、219年に呉との戦闘で敗れた関羽でしょう。要所であった荊州を巡る戦いで、もし関羽が敗れて敗死をしていなかったら、その後の天下三分の計がどうなっていたか、三国志を読んだ人なら一度は想像をしてみたのではないでしょうか。期待や可能性が大きかった意味でも、関羽の敗死は武将としてもっともがっかりさせられた出来事です。

 次のがっかりさせられた武将は、恐らく馬超ではないでしょうか。北方で曹操を悩ませた頃の若き躍動感とは異なり、蜀の劉備の配下となってからは大きな活躍はなく、人生の前半で体験した苦難や浮沈の影響か、出がらしのような状態に感じてしまいます。

 もっとも、曹操との抗争で、一族が壊滅するような運命をたどったのですから、それも仕方ないかもしれませんが。蜀の武将として大活躍をする事績がなかったことは、後世で三国志を読む私たちを、少し寂しい気持ちにさせます。

 魏の武将としてのがっかり将は、夏侯淵でしょう。猛将として有名をはせながら、蜀との重要な決戦で敗死して、劉備軍団を天下の一角をなす勢力に成長させてしまいました。夏侯淵は武勇に優れても、知略のない人物だと曹操に思われていた記録が残っています。

 最強の武将たち、そしてがっかりさせられた武将たちを対比すると「武勇を支える知略」「攻めと守りのバランス」などの要素が浮かび上がります。三国志の時代でも、強者や智者が生き残りをかけて戦いを続けており、時間の経過とともに、戦いながら学習をし続ける「戦闘的な学習知力」が武将たちの運命を大きく分けていったと考えられるのです。