世界最大級のガラスメーカー、AGCは三菱グループの中の有力企業である。創業者は岩崎俊彌、創立は1907(明治40)年9月。それから110年余りの間、社名は「旭硝子」であったが、2018年7月、「AGC」に変更した。なぜ同社は創業当初から社名に「三菱」を付けないのか。
社史研究家の村橋勝子氏が小説顔負けの面白さに満ちた社史を「意外性」の観点から紹介する本連載。第7回はAGCを取り上げる。
「輸入品を阻止する」創業者の思い
わが国における窓ガラス(板ガラス)製造の企業化は、明治維新以前から日露戦争の頃まで国営または民営によってたびたび試みられたが、常に技術的、資金的に行き詰まり、失敗に終わっていた。
岩崎俊彌は、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎の弟で三菱二代目社長となった彌之助の次男である。ロンドン大学で応用化学を学んで帰国、日露戦争後の企業勃興機運に際会して、わが国の化学工業、中でも、窓ガラス製造工業が幼稚であることを深く遺憾とし、「近代的文化生活の向上に伴って必然的に需要が激増する窓ガラスをいつまでも海外からの輸入に頼るのは、国家経済上の不利益だけでなく、わが国実業家の無気力を物語る。なんとしてでも国産化しなければならない。多くの人々が失敗し、回避した事業こそ、生涯を捧げるに足る事業だ」と、24歳で企業創業を決意した。
当初、大阪のガラス製造業者の中で頭角を現していた島田孫市と組んで、1906年12月、大阪島田硝子製造合資会社を設立した。しかし、島田が主に製造していたガラス器具類(コップや皿などの食器類、電灯瓦斯用器具、各種瓶など)は工程の大部分が人力に頼るという製法で、岩崎が目指す窓ガラス製造とは、工場規模、企業形態、事業方針など経営全般が著しく異なり、間もなく島田と袂を分かった。そして、組織は大企業にふさわしい株式会社、工場も大規模かつ近代的なものにと、新たな構想の下、1907年9月、弱冠26歳で兵庫県尼崎に旭硝子(株)(資本金100万円)を創立した。
1909年に、水運や将来の拡張を考慮して、尼崎工場(現・関西工場)を建設。当時、窓ガラス王国と言われていたベルギーから設備一切を輸入し、招聘(しょうへい)した技能者たちから、ベルギー式手吹円筒法(※1)の技術指導を受けて、日本で初めて板ガラスの工業生産を開始した。翌年1月から製品の本格的発売を行ったものの、創業から数年間の営業成績は欠損の連続で、かろうじて収支が相償(あいつぐな)うようになったのは、大正に入ってからであった。
その後、人力に代わり、機械でガラス円筒を吹き上げるアメリカのラバース式機械吹き円筒法を導入した。1914年に、福岡県戸畑町(現・北九州市)の牧山工場(現・北九州工場)、16年に神奈川県鶴見の鶴見工場(現・京浜工場)、17年に牧山工場の第2工場が操業を開始し、ラバース式板ガラス製造で増産に努めた。
※1 溶けたガラスを鉄製の吹棹(ふきざお)に巻き取り、息を吹き込みながら左右に振って長さ150cm、直径30cmの円筒状に吸成(すいせい)し、その円筒を長手方向に切って過熱し板状にするというガラス製法。
1914年12月に英国向けに初めて板ガラスを輸出したが、これは、同年7月に第一次大戦が勃発して、ベルギーをはじめとするヨーロッパ製品が世界市場から退潮、国内外で同社製品の需要が高まったからでもあり、同社のガラス事業の地位を確立させる歴史的転機となった。
板ガラス製造に不可欠なのは、ガラス溶解槽釜に用いる耐火レンガや主要原料のソーダ灰だが、全て輸入に頼っていた。しかし、安定的に板ガラスを生産し、国際的な競争を勝ち抜くためには、重要な原材料は全て自給し、事業展開を図らなければならない。
岩崎は創業時から耐火煉瓦やソーダ灰の自給を目指して工場内で製造試験を行っていたが、第一次大戦によって入手難が起きて自給体制が急務となったことから、1916年に尼崎工場の隣接地に耐火レンガ製造工場を建設、翌17年、牧山工場隣接地にアンモニア法によるソーダ工場を建設して、わが国最初のソーダ灰の国産化に成功、自社生産を開始した。
1917年に本社を尼崎工場内から東京市麹町(現・千代田区丸の内)に移転、これに伴い、全国各地に営業所を設け、業容の拡大に向かった。
科学の進歩に伴い、工業界は急速に機械化・合理化・標準化されつつあったことから、1928年、尼崎工場を最新式のフルコール式平板引上法(※2)に改造、製造工程のほとんど全部を機械化して普通板ガラスの生産を開始、31年に新方式のピッツバーグ式平板引上法(※3)に改造するなどして、普通板ガラス工場の全てを近代的機械化設備に置き換えた。
※2 溶解炉から直接、しかも連続的に板状のガラスを引上げる製法
※3 フルコール式に比べ引上板幅が広く、ガラスを通して外の景色を見た時の景色の歪みが少ない製法
1933年にはアンモニア法による苛性ソーダの生産を、1938年には強化ガラス、合わせガラスの生産を、1939年には伊保工場(兵庫県、現・高砂工場)で耐火煉瓦および有機ガラスの生産を行った。
「輸入品を阻止する」という俊彌の思いはついに実って、創業から30年後の1937年には板ガラスの生産で世界第1位に躍り出た。
なぜ「三菱硝子」にしなかったのか
第二次大戦中の1944年(昭和19年)4月、軍需省の指導で日本化成工業(株)と合併して、三菱化成工業と改称した。
戦後は、1950年1月の企業再建整備法に基づき、旭硝子、日本化成工業(後の三菱化成工業、現・三菱化学)、新光レイヨン(現・三菱レイヨン)に3分割されたが、占領から解放されると、同年6月、再び旭硝子(株)として新発足し株式上場した。そして、日本経済の高度成長に伴い、同社も大きく躍進し、本業のガラス部門で一層の発展を遂げるだけでなく、建築材料、化学、電子部材などへも進出、多角化している。
ところで、三菱グループの主要企業、しかも創業者が三菱財閥枢軸の岩崎家の俊彌なら、創業時の社名は「三菱硝子」とでもしそうなものなのに、「旭硝子」にしたのはなぜだろうか。
創業の際、俊彌は社名について父・彌之助に相談したようで、彌之助が三菱合資会社庶務部長の荘清次郎に送った手紙には「旭玻璃会社とでも致しては」とあり、「玻璃」(硝子の古称)か「硝子」かで、父子ともに悩んでいたことがうかがえると社史にある。しかし、「旭」を冠した理由は定かでない。
社名の由来には「昇る旭になぞらえた」とか「予定していた会社の設立が9月9日だったので、九の字と日の字を組み合わせた」など、諸説があるという。「旭日昇天の勢い」などと言うが、「旭」を冠したのは「板ガラス事業が、日本の産業を勢いづける」という意志と願いを込めたのかもしれない。
「旭」については、なんとなく分かるが、なぜ「三菱」を冠しなかったのかは書いてない。それでも、社史を丁寧に見てみると、『旭硝子100年の歩み』にわずか1行、「岩崎社長は万一事業が失敗して三菱の名を汚すことがあってはとの配慮から心を砕いたようである」とある。これが、本当の理由であろう。
家柄でも、ロンドン大学で学んだ学歴から見ても、青年実業家として将来を約束された道はいくらでもあったに違いないのに、あえて茨(いばら)の道を選んだ俊彌。同氏が挑んだ事業が、「三菱」という名に配慮せざるを得なかったほど、当時、それがいかに困難なものであったかがうかがえる。
新社名「AGC」は、「素材の会社AGC」というCMの通り、「もはや、ガラスばかりではない」からだろう。とはいえ、旭硝子の欧文社名「ASAHI GLASS COMPANY」の頭文字をとったものだから、タテのものを横にしただけだ。つまり、大きくは変えていないのだ。アルファベット3文字に、創業者・俊彌への畏敬の念と、今も創業の精神を受け継いでいるという思いが込められているのではないだろうか。
<参照社史等>『社史』(旭硝子、1967年)、『旭硝子100年の歩み:伝統・創造・革新』(2007年)、『岩﨑俊彌』第3版(1951年)