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大企業の経営幹部たちが学び始め、ビジネスパーソンの間で注目が高まるリベラルアーツ(教養)。グローバル化やデジタル化が進み、変化のスピードと複雑性が増す世界で起こるさまざまな事柄に対処するために、歴史や哲学なども踏まえた本質的な判断がリーダーに必要とされている。
本連載では、『世界のエリートが学んでいる教養書 必読100冊を1冊にまとめてみた 』(KADOKAWA)の著書があるマーケティング戦略コンサルタント、ビジネス書作家の永井孝尚氏が、西洋哲学からエンジニアリングまで幅広い分野の教養について、日々のビジネスと関連付けて解説する。
第8回目は、ウォーレン・バフェットも投資判断の参考にする「地政学」を取り上げる。普段はつい見過ごされがちな、世界が抱える問題の背後に隠れされている「大きな構造」が見えるようになるはずだ。
地政学を学べば、国際政治の隠れた本音を読み解き、ビジネスでも役立つ
『マッキンダーの地政学』(H.J.マッキンダー著、曽村保信訳、原書房)
国際政治は感情や情緒ではなく、冷徹な利害関係で動く。そのベースとなるのが地政学である。では「地政学」とはそもそも何か?
『広辞苑』によると、地政学とは「政治現象と地理的条件との関係を研究する学問」だ。国家は引っ越せない。地政学はこの地理的な制約条件が、いかに国家の政治に関係するかを研究する。この地政学が分かると、国際政治の裏側にあるロジックを読み解くことができる。
2022年2月、ロシアのウクライナ侵攻に西側諸国は一斉に反発し、経済制裁で世界は大混乱に陥った。しかし「東欧の一国で起こった紛争で、なぜ世界中が大騒ぎするの?」と思った人もいるかもしれない。実はウクライナは、世界的に見て超重要地域なのだ。地政学を学べばその理由が理解でき、大国が隠し持つ本音も読み取れるようになる。
さらに地政学を理解すれば、ビジネスチャンスも獲得できる。投資家は地政学を解読してリスクヘッジする。2023年、「投資の神様」ウォーレン・バフェットは、台湾にある世界最大の半導体メーカーTSMCの持ち株を全て売却した。収益性が高く売りたくなかったそうだが、台湾の地政学的リスクを判断した結果だという。
そこで地政学を理解するために、今回は『マッキンダーの地政学』(副題は『デモクラシーの理想と現実』、H.J.マッキンダー著、原書房)を取り上げよう。本書は地政学のバイブルだ。著者のマッキンダーは1861年英国生まれ。地理学研究者だった彼は、政界に出て第一次世界大戦中は英国の戦いを政治家として支援。そして1919年に執筆したのが本書だ。
1985年に刊行された邦訳版の訳者・曽村保信氏は解説で「現在いわゆる地政学とよばれているものは、事実上マッキンダーによって始められたとみてさしつかえない」「マッキンダーの所説のなかには、(中略)およそ20世紀の国際政治学のあらゆる基本的命題がすでに含まれている」と述べている。
「支配すれば世界を制する」と言われる「世界島」とは?
本書では、次の有名な言葉が出てくる。
「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する」
このハートランドや世界島の概念が、マッキンダー地政学のカギである。この概念を理解するために、地政学の基礎から分かりやすく説明していこう。
地政学では「シー・パワー」や「ランド・パワー」という言葉が出てくる。シー・パワーとは海洋を支配する能力だ。海洋国家の日本は、シー・パワー大国である。ランド・パワーとは陸地を利用する能力。ロシアや中国は大陸国家であり、ランド・パワー大国だ。
出典:『マッキンダーの地政学』を参考に筆者が作成拡大画像表示
さらにマッキンダーは「世界島」という概念を提唱した。世界島とは陸続きであるヨーロッパ、アジア、アフリカの3大陸の総称で、現在世界人口の75%が世界島にいる。北米と南米はパナマ地域でわずかにつながっているだけで事実上は別々の島だ。
こうして地球を俯瞰すると、世界を支配しているのは世界島だ。世界にとっての脅威は、この世界島を単一勢力が支配することだ。
「ハートランド」を支配する者は、世界島を制する
マッキンダーはこう述べている。
「われわれは、いつの日か巨大な大陸が唯一の勢力の支配下におちいり、これが無敵のシー・パワーの基地となる可能性を度外視してもさしつかえないだろうか?(中略)これは戦略上の観点からみるとき、世界全体の自由にとって、まさに最大の、究極的な脅威だといわなければなるまい」
この世界島を支配するのが「ハートランド」である。下の図はマッキンダーの地政学で有名な図だ。
ハートランドは「PIVOT AREA(中心領域)」と書かれた部分だ。北極海沿岸から南にかけて、アジアの半分と欧州の4分の1を含む領域だ。北極海側は氷で閉ざされており海からの交通は不可能で、外部のシー・パワーの攻撃は困難だ。マッキンダーはこの地域を大陸の心臓地帯(ハートランド)と名づけた。
ハートランドは大草原だ。歴史上、ハートランドの遊牧民族たちは、周辺の国家を侵略し続けてきた。7~13 世紀、西アジア・北アフリカ・南ヨーロッパを支配したサラセン帝国は、北のハートランドの勢力により滅ぼされた。このハートランドは、梅棹忠夫が著書『文明の生態史観』(中公文庫)で「乾燥地帯」(別名「悪魔の巣」)と呼び、遊牧民が侵略を繰り返してきた地域だ。
マッキンダーはこう述べている。
「英国やフランス等の国民国家の成立、ベネチアの海上勢力の勃興、また中世における法王庁の権威の確立などは、みんな一つの事件に起因している。それはつまりハートランドから来襲した強敵にたいして、海岸の諸民族が一致して反撃をくわえた、ということである」
そしてロシアの台頭でハートランドの状況は一変する。マッキンダーは次のように述べている。
「遊牧民族や騎馬民族などが彼らの帝国を永く維持できなかったのは、要するに十分なマン・パワーに欠けていたためである。(中略)ロシアの時代になってはじめて、真に驚異的なマン・パワーの持ち主がハートランドの住人になったことを知ったようなわけだった」
ロシア革命でソビエト連邦が誕生して米国と並ぶ超大国になった。その後、ソ連崩壊でロシアの経済規模は大きく縮小した。しかし現在もロシアはハートランドを制し、核も所有する。だからロシアは世界の強国なのだ。
「東欧」を支配する者は、ハートランドを制する
ただし、ハートランドには悩みもある。港がないことだ。北極海側は氷で閉ざされている。ロシアの長年の念願は不凍港の獲得だった。日露戦争のきっかけとなったロシアの南下も、不凍港の確保が目的だった。
東欧はハートランドと海の両方に接する。東欧はシー・パワーが攻めてくる入口であり、ハートランドがシー・パワーを獲得し、海に出る出口でもある。だから「東欧を支配する者はハートランドを制する」のだ。
東欧にあるウクライナは、ロシアと国境を接し、黒海にも接する。ロシアがウクライナを制すれば、海の出入口を確保して、ハートランドをほぼ完全に制圧できる。西側諸国は、このウクライナ占領がかつての超大国・ソ連の再来につながる可能性を怖れている。
ハートランドを制圧後、ロシアが世界島を制し、世界を制する可能性もある。ウクライナは地政学的に世界の最重要地域の一つなのである。だから西側諸国はウクライナを全力で支援する。
このように地政学では、地理的な視点で歴史から学び、そこから国家間の競争パターンを読み解いて、国家間の競争で有利な立場を獲得することを狙うのである。以上がマッキンダー地政学の概略だ。
なお、「港がない」というハートランドの悩みは、地球温暖化により2040年頃には北極海を覆う氷がなくなることで、大きく変貌する可能性がある。
そもそも「ハートランドが世界島を支配できる」理由は、氷に覆われた北極海からシー・パワーが進入できないことだった。この条件がなくなり、さらにロシアが不凍港を求めて南下政策を取る必要もなくなる。その結果、ロシアが海洋国家に変貌する可能性も出てくる。地政学的に考えると、北極海は将来的に赤丸要チェックの地域である。
地政学と私たちのビジネス
繰り返しになるが、国際政治は、感情や情緒では動かない。あくまで、冷徹な利害関係で動く。そのベースが地政学なのだ。この地政学が分かると国際政治のロジックを読み解くことができ、ビジネスチャンスを獲得できる。
2016年に安倍晋三首相(当時)が提唱した「自由で開かれたインド太平洋」という外交方針も、地政学的ビジョンだ。一帯一路戦略を進める中国へ対抗するため「自由、開放性、多様性、包摂性、法の支配の尊重」という理念に賛同する環太平洋地域の自由主義諸国が束になり、より大きな網を被せることを狙う戦略なのだ。
この国家戦略の地政学的な狙いを理解すれば、ビジネスで追い風に乗ることができる。例えば、若年層の人口と豊富な資源を持つアフリカは日本の重点投資地域だが、アフリカは法整備が遅れている。そこで日本政府の支援を得てここでスタートアップを起業し、日本では不可能な挑戦をする人もいる。
ビジネスパーソンも地政学的な視点を持てば、見えなかった大国の狙いが見えるようになり、ビジネスで先手を打てるようになるのである。


