大川功氏(1997年撮影、写真:時事通信フォト)

 情報通信が世の中を変えるとの予兆をいち早く読み取り、30代でソフト会社CSKを起業、20年で業界トップに成長させた大川功氏は一代にして莫大な資産を築く。そしてその資産を、自身が目をつけた人材に惜しげもなく注ぎ込む、経営者たちにとってのパトロンでもあった。

「サラ金批判」も承知の上で武富士を救う

 今回の主人公は大川功氏(1926年─2001年)。CSKの創業者だ。CSKは独立系ソフト会社の最大手だった会社で、1980年に業界初のIPOを果たし、グループ売り上げは一時1兆円に迫った。

 しかしバブル経済崩壊後、企業の情報化投資が低調になり業績が悪化。それを補おうと金融や不動産投資を強化したがそれもうまくいかず、2011年住商情報システムと合併しSCSKと社名を変える。事実上、住友情報システムによる救済合併だった。

 大川氏が鬼籍に入ってから間もなく四半世紀がたつ。大川氏のことを知っている人も少なくなった。当連載「イノベーターたちの日本企業史」では過去に9人の経営者が登場したが、その9人と比べても大川氏の知名度は大きく落ちる。

 それでも記事で取り上げるのは、大川氏こそが実業界における戦後日本最大のパトロンだったからだ。一代にして業界トップ企業をつくった手腕も見事だったが、それ以上に、これぞと見込んだ経営者には支援を惜しまない、その生き様を知ってほしいと考えたためだ。

 かつて武富士という会社があった。消費者金融(サラ金)の最大手で、大勢の女性がダンスを踊るテレビCMを大量に流していた。創業者は武井保雄氏。30代を過ぎてから団地の主婦を対象に貸金業を始め、瞬く間に業界1位に躍り出た。武井氏は「サラ金の帝王」と呼ばれていた。

武井保雄氏(左/2001年撮影、写真:共同通信社)

 武富士に限らず消費者金融各社は2000年代に入り過払い金返済訴訟を起こされ業績を悪化させていく。武富士もそれにより倒産するのだが、それ以前にもピンチがあった。

 1980年代、サラ金は社会問題化していた。高い金利、厳しい取り立てなどで自殺者も相次いだことで批判が噴出した。そのためサラ金に対して資金を供給していた金融機関も、融資を絞らざるを得なくなった。サラ金、そして武井氏にしてみれば、水道の蛇口を締められたようなものである。

 これを救ったのが大川氏だった。資金ショートのピンチを迎えた武富士に対し、大川氏は100億円単位の資金を提供したと言われている。大川氏とてサラ金批判は承知の上。それでもめっぽう数字に明るく、他の人にはない発想力と行動力を持つ武井氏が、このままつぶれてしまうのは惜しいと考えたのだろう。

 あるいは、大川氏も武井氏も30代になってから会社を立ち上げ、それぞれその業界でトップに立ったところにシンパシーを感じていたのかもしれない。もちろん、少し手を貸してあげれば、武井氏ならこの危機を乗り切れる。そうなれば大きなリターンを生む、という投資家としての読みもあったはずだ。

 筆者が大川氏の死後に武井氏に話を聞いた時も、「大川さんには感謝してもし切れない」と語る一方で、「そのぶん、十分なお礼をさせてもらった。大川さんにとっても“おいしい”ディールだった」と語っていた。

最後まで面倒を見続けたアスキーとセガの末路

 若い人にもさまざまなサポートを行った。大川氏には、これからの日本は大企業の時代ではないとの思いがあった。ニュービジネス協議会の会長を引き受けたのもそのためだ。そして実際、若い起業家たちをかわいがった。今は日本を代表する経営者になった孫正義・ソフトバンクグループ社長も、創業間もないころから大川氏のサポートを受けていた。

 そして孫氏と並ぶ若手経営者もその一人だった。1980年代、「天才・西、神童・孫」という言葉がメディアをよく飾った。「孫」は言うまでもなく孫氏。そして「西」はアスキー社長だった西和彦氏。ともに20代のIT業界の経営者だった。

 ただし当時は20代にしてマイクロソフトの日本代表でもあった西氏の方が圧倒的に知名度が高かった。その西氏に対して大川氏は「困ったことがあったら何でも言ってきなさい」と言っていた。その言葉は嘘ではなかった。

 90年代に入るとアスキーの業績は急降下する。創業メンバーの内紛や、西氏が映画ビジネスなど本業以外にのめり込んだことが原因で、経営は立ち行かなくなっていた。そこで西氏は大川氏にすがった。それに応えて大川氏は、アスキーに対してCSKとグループ会社のセガ(現セガサミー)で計100億円を出資、アスキーをCSKグループに迎えた。

 もっともそれでもアスキーの経営は好転せず、大川氏の死の直後、CSKはアスキー株全てをファンドに無償譲渡する。つまり100億円まるまる失ったことになる。それでも大川氏には悔いはなかったに違いない。面倒を見るとなったらそれを貫き通す。それが大川氏の生き方だった。

 セガに対してもそうだった。セガはもともと米国資本のジュークボックス輸入販売会社で、中山隼雄氏が社長を務めていた。つまり雇われ社長である。ところが米国本社のトップが変わり、子会社政策も見直すことになった。そうなると自身の立場も危ういと考えた中山氏は、自ら会社の買い手を探すことにした。それが大川氏だった。

 中山氏と大川氏はともに世田谷区成城暮らしの隣組。家族同士の付き合いもあった。そこで中山氏が企業買収をもちかけたところ、大川氏は即決。当時セガは業務用ゲーム機も扱っており、情報産業との相性もいいとの判断があったようだ。こうして1984年、セガはCSKグループの一員となり、中山社長は続投、大川氏は会長に就任した。今でいうMBOの成立だ。

 その後セガは、88年に発売した家庭用ゲーム機「メガドライブ」が大ヒット、「ファミコン」の販売が絶好調だった任天堂のライバルに躍り出た。ところが後継機の「セガサターン」、さらには「ドリームキャスト」がいずれも失速したために、セガの業績は急速に悪化していく。

セガの家庭用ゲーム機「ドリームキャスト」を一番乗りで手に入れ、大喜びで報道陣に見せる男性(1998年撮影、写真:共同通信社)

 そこで大川氏は自ら会長兼社長に就任し、陣頭指揮を執る。さらに2000年には500億円のセガ株を引き受け、01年初頭には850億円をセガに譲渡する。いずれも大川氏の私財だった。

 大川氏には、「いずれ個人がネットワークで結ばれる時代が来る」との確信があった。セガはその橋頭堡(きょうとうほ)になる。さらに大川氏には、「会社は絶対につぶしてはならない」という信仰にも近い信念があった。だからこそ存続に執念を燃やした。

 ところがその思いは志半ばで途切れてしまう。850億円を提供したわずか2カ月後に大川氏が亡くなったためだ。ガンで闘病中ではあったものの、そんなに早い幕切れは本人も予想していなかっただろう。

 結局セガは、大川氏亡き後CSKのお荷物となり、04年、セガサミーとなってCSKから切り離される。セガを通じて新しい世界を開きたいとの大川氏の思いを、残されたCSK経営陣が共有することはなかった。

「次代をつくる人を支えたい」今なお受け継がれる大川氏の思い

 もっとも生前よく「僕の経営観は人生観であり、事業は一代限り」と語っていたことからも分かるように、大川氏には、自分がいなくなればその思いは引き継がれない、という諦観もあった。だからこそ逆に、生きている間はできることは何でもやる、というスタンスでことに臨んでいたのだろう。

 それでも、次代をつくる人たちを支えたいという大川氏の思いは、大川氏が出資した基金を元に設立された大川情報通信基金として、今なお受け継がれている。毎年、情報通信分野に貢献した人を「大川賞」として表彰しており、今年で34回を数える。

 ここまでビジネス上のパトロン・大川氏の功績を見てきたが、それだけではない。

 当連載で宅急便の生みの親、小倉昌男氏を取り上げた時に、小倉氏は「新橋芸者の熱心なサポーター」と書いたが、大川氏は「赤坂芸者のサポーター」だった。大川氏が健在だったころは赤坂にも多くの料亭が残っており、夜ともなれば黒塀前には黒塗りのハイヤーが並んでいた。

 そして大川氏は、連日のように姿を現し、取引先や気の合う仲間との会食を重ねた。筆者もこうした場で、破談になったセガとバンダイの合併話の経緯や、自身の子どもたちに事業を継承しない理由などを聞いた覚えがある。

 大川氏が亡くなった後、赤坂の料亭街は急速に衰退していく。大川氏の財力が赤坂花街を支えていたとはいうわけではないが、大川氏の人生が時代と重なっていたことを物語るエピソードだと言えるだろう。

【参考文献】
『予兆』(大川功著)