EY Japan 気候変動・サステナビリティ・サービス EHSリーダー茂呂正樹氏(写真提供:EY Japan)
企業に対し、気候変動対応や従業員のウェルビーイング向上への対応を求める声が強まっている。その中で、改めて脚光を浴びそうなキーワードが「EHS(環境・労働安全衛生)」だ。日本のモノづくり企業が長年取り組んできた活動だが、コストセンターと捉えられがちで、企業価値向上につなげるような取り組みや投資家向けの情報発信はまだ道半ばだ。
企業がEHSに取り組む意義や、企業価値向上につなげるポイントなどについて、このほどEY(アーンスト・アンド・ヤング)が発表した『EYグローバルEHS(環境・労働安全衛生)に関する成熟度調査2024』の内容も踏まえて、EY Japan 気候変動・サステナビリティ・サービス EHSリーダーの茂呂正樹氏に解説してもらった。
EHSはコストセンターではなく企業価値の源泉
EHS(Environment, Health and Safety:環境・労働安全衛生)とは、企業活動に伴う環境負荷を減らし従業員の安全衛生と健康を守るとともに、さまざまなステークホルダーの健康で安全な暮らしにも貢献し、持続可能な社会を目指す活動である。
概念自体は新しいものではなく、1990年代以降、欧米諸国において取り組む企業が拡大した。日本でも製造業を中心に、専門部署を設置したり、研修を通じてEHSの意識を高めたり、重大な事故を未然に防ぐためのマネジメント体制を確立したりするなど、多くの企業がEHSに取り組んできた。
またEHSは近年、各国の投資家が投資の判断基準として重視しているESG(環境・社会・ガバナンス)と重なる部分が多く、EHSの取り組みはESGの推進にも貢献していると言える。
ただ、これまでEHSは企業にとって重要だという漠然とした認識はあったものの、「企業価値向上につながる活動」との理解は乏しかった。またEHSに関する施策の成果と企業の財務業績との関係性についても、定量的には明らかにされていなかった。そのため多くの企業で、EHS部門はあくまで「コストセンター」の一つと捉えられてきたのが実情だ。
こうした背景を踏まえ、EY(アーンスト・アンド・ヤング)が今回実施したのが『EYグローバルEHSに関する成熟度調査2024』である。日本を含む世界の約9000社の企業データと、約400社に対するアンケート調査の結果を分析し、EHSの取り組みが財務業績や社会的パフォーマンスにどのような影響を及ぼすのかを明らかにしたものだ。今回の調査の経緯や意義について、茂呂正樹氏は次のように解説する。
「私も長年EHSの分野で活動してきて、多くの経営者の方々から『これを実施することでどれだけの利益が出るのか』『どれほど企業価値が向上するのか』といった質問を受けましたが、定量的なデータによって明確に示すことができず、もどかしい思いをしてきました。
そして今回、改めてEYとしてその効果を検証するために、定量的な調査・分析を実施することとなりました。EHSと経営との相関に関するこれほど大規模なグローバル調査は、おそらく過去になかったと思います。その結果、EHSと経営との相関が明確に確認できたことは大きな成果だと感じています」
グローバル調査に見る、EHSパフォーマンスと財務業績の相関関係
それでは、主な調査結果を見ていこう。
まず今回の調査では、EHSパフォーマンス(EHS活動がもたらした成果)を示す6つの指標と、企業の財務業績や社会的パフォーマンス、規制への対応を示す11の指標を設定し、これらの相関関係を検証している。
EHSパフォーマンスの指標とは、下図に示したように、具体的には総労働災害発生率や休業災害(休業を伴う労働災害)発生率、労働安全衛生チームの有無、ESGスコアの「環境」パート(※)などが挙げられている。
※ESGスコア
ESGスコアとは、企業のESGへの取り組み状況を指標化したもの。今回のレポートでは、ロンドン証券取引所グループ(LSEG)傘下の RefinitivによるESG評価スキームに基づくESGスコアのうちE(環境)に注目し、大気環境や土地利用、水資源、生態系など自然システムに企業が与えるインパクトを測定し、企業がどの程度、環境リスクを管理し、長期的な株主価値を創造する機会を十分に捉えているかを評価している。
一方、財務業績や社会的パフォーマンス等に関する指標としては、純利益や時価総額、従業員の離職率、EHS関連の論争の件数などがある。なお、ここでいう論争(controversy)とは、法規制に基づいて災害や労災に関する訴訟に発展した場合を指す。
特に海外ではこうした分野の訴訟に長い時間を要することが多く、企業経営にとって大きな負担となる。逆にこうした論争が少なければ、それだけ企業がEHSに適切に対応できていることを意味する。
今回の調査分析の結果、環境パフォーマンスや労働安全衛生パフォーマンスが優れている企業は、収益や時価総額の上昇幅も高い傾向にあることが分かった。
例えば下図のように、ESGスコアの「環境」パートの10年間の変動と、過去10年間の収益の増減を比較したところ、これらの2指標の間に正の相関関係が見られた。すなわち「環境」パートのスコアの向上の程度が大きいほど、収益の増加率も大きくなる傾向にあり、環境パフォーマンスが向上した企業は概して財務業績も向上している可能性が見られた。
同様に次の図を見ると、総労働災害発生率の10年間の変動と、純利益の10年間の増減には相関関係があり、総労働災害発生率が低下した企業は、純利益が増加する傾向にあることが分かる。
「日本のモノづくり企業のEHSの取り組みは世界的に見ても高水準でしたが、どちらかと言えば地味な存在で、注目される機会があまりありませんでした。今回の調査結果は、環境対策や安全衛生対策を徹底し、汚染・環境事故の発生や労働災害の発生を抑えている企業は、従業員を守るだけでなく、業績にも好影響を与えていることを示唆しています。この部門を地道に支えてきた多くの方々に勇気を与える、大変意義ある結果だと考えています」(茂呂氏)
EHSを支える組織風土の醸成が不可欠
さらに今回のレポートでは、「EHS成熟度」の高い企業、つまり効果的なEHS施策を実施している企業に共通する特徴についても調査している。
分かりやすい調査結果の一つが、「EHSパフォーマンス」と「役員報酬」との関係性だ。先進的な企業は、この分野で適切なリーダーシップを発揮するインセンティブとなるよう、EHSパフォーマンスと役員報酬を戦略的に結びつけている。
これにより、役員たちはEHSの成果を向上させることに注力すると期待できる。実際、EHSの成熟度が特に高い企業のうち、EHSパフォーマンスが役員報酬の「非常に」重要な決定要因だと回答した企業の割合は87%に上った。
「EHSの取り組みが真価を発揮するには、経営陣の強いコミットメントが重要です。『EHSが重要だ』『EHSの施策に注力しなさい』と打ち出すだけで経営陣の行動が伴わないと、社員の士気は上がりません。
今回の調査結果でも、経営陣の注力の大きさが、その企業のEHS成熟度を左右する大きな要因であることが明らかになっています。役員報酬とひも付けることで、その企業の本気度を社内に示すことができ、EHSに取り組む風土の醸成にもつながるでしょう」(茂呂氏)
もう一つ重要なのは、EHSに関する情報を円滑に共有し、事故の発生リスクに適切に対応できるようにガバナンスの仕組みやマネジメント体制を整えることだ。今回の調査でもEHSが成熟している企業ほど、EHSに関する重要な情報を企業全体に報告する傾向が見られた。
例えば、日本の製造業では、重大な事故には至らなかったものの、そうした事態につながりかねない小規模な異常・不具合を「ヒヤリハット」と呼び、報告書を作成して社内で共有するケースがよく見られる。非常に良い取り組みだが、単に報告制度を取り入れるだけでなく、有効に機能させる風土づくりも重要だと茂呂氏は強調する。
報告制度を形骸化させないために必要なこと
というのも「ネガティブな情報を上司に報告するのを控えよう」という組織風土があれば、報告制度があってもヒヤリハットの情報が十分共有されない可能性があるからだ。この場合、異常や不具合の件数がたとえ少なくてもヒヤリハットが全く報告されない職場の方が注意を要するだろう。何も問題がないように見えて、重大な事故が起きる危険性を秘めている。
「その意味で、事故を防ごうとしてヒヤリハットの少なさを工場ごとに競わせるような方法は避けるべきです。報告が少ない工場が評価され、逆に報告が多い工場が怒られてしまうと、ヒヤリハットを隠そうとする風土を醸成してしまいます。
むしろ些細なことでも『すみません、こんな不具合がありました』と素直に報告しやすい職場は、EHSの観点から見て良い職場です。正しい情報が集約されればガバナンスも機能しやすく、有効な改善策を講じることができるからです」(茂呂氏)
この他にも今回の調査レポートでは、EHS成熟度が高い企業の特徴として、新入社員オリエンテーションでのEHSトレーニングを義務づける、EHS指標に基づく褒賞制度を導入する、EHSに関する課題提起を従業員に奨励する、EHS関連データを適切に管理するためのデジタルツールを導入する……などを紹介している。これらは必ずしも大規模な投資を必要とせず、あらゆる企業において導入が可能だ。
「自社で取り入れやすいところから導入していけば、EHSの基盤を強化することになり、ひいては企業価値向上につながります。ぜひ多くの企業に実践していただきたいと思います」(茂呂氏)
前述のように、これまでもEHSに熱心に取り組んできた日本企業は多い。今後の課題は、それをいかに説得力のある形で外部に情報発信し、投資家からの評価を獲得して、一層の企業価値向上につなげていくかだろう。最後に情報発信のポイントを茂呂氏に聞いた。
「環境経営、サステナビリティ経営なども同じ傾向が見られますが、『当社はEHS活動に熱心に取り組んでいます』といった宣言だけで終わっていて、具体的にどのような活動をしているのか、その成果がどのような指標に表れているのかを開示できている企業は少ないのが現状です。
今回のレポートでも触れられていた離職率や総労働災害発生率などの指標を用いて、自社のEHSの取り組みとの相関関係を提示していくことが求められます。あるいは『組織風土改革により、ヒヤリハットの報告は◯件に増えたが、事故は◯%減少しました』といった報告でもよいでしょう。できる範囲から、自社なりの指標を用いて情報開示に取り組んでいくとよいと思います」(茂呂氏)





