1989年12月、リクルート事件政界ルート初公判で東京地裁に入る江副浩正氏(写真:共同通信社)

 就職情報誌を皮切りに、次々とマッチングメディアを立ち上げて成功したリクルート。1980年代後半、創業者の江副浩正氏は得意の絶頂にあった。しかし1988年、リクルート事件の大スキャンダルが発覚する。江副氏もリクルートも、運命が反転した。

社会全体を大きく揺るがせた「リクルート事件」

〈『リクルート』川崎市誘致時 助役が関連株取得〉

 1988年6月18日、朝日新聞社会面にこの見出しの記事が掲載された。リクルート事件の幕開けだった。

 朝日新聞の記事は、リクルートが川崎駅前にビルを建設する際、容積率アップの便宜を払ってもらうために上場前のリクルート・コスモス株を川崎市助役に贈与。上場後に助役は株を売却し、1億円の利益を得たというものだった。

 これだけなら地方自治体における贈収賄事件に過ぎない。ところがこの後、続報が相次ぎ、リクルート・コスモス株は現職の竹下登首相や中曽根康弘前首相を含む与野党政治家、事務次官級の官僚、NTT社長などの経営者、日経新聞社社長ほかメディア関係者など、90名以上に譲渡されていたことが発覚した。

 発覚当時はバブル経済がピークに向かう途上。株価は毎日のように最高値を更新しており、上場後はほぼ間違いなく公開価格を上回った。1987年に上場したNTT株は、売り出し価格119万7000円と高額だったが個人投資家の応募が殺到し、抽選倍率は6倍の人気だった。人気になるのも当然で、上場初値は160万円をつける。抽選に当たった人は一瞬で40万円儲けたことになる。

 上場前の株を手に入れれば、濡れ手で粟(あわ)の利益を得ることができる。その株を政治家や官僚などの権力者が受け取っていたことで、資産を持たない国民は反発。ロッキード事件と並ぶ戦後最大級の疑獄事件となった。

1988年11月21日、リクルート事件を捜査する国会衆院特別委員会で証人として証言した江副浩正氏(写真:Fujifotos/アフロ)

 この事件は収賄側では元官房長官や元事務次官が、贈賄側ではリクルート(現リクルートホールディングス)創業者で社長、会長を務めた江副浩正氏など、計12人が逮捕・起訴され、全員有罪が確定した。また竹下首相が辞任し、後任首相で臨んだ参院選では自民党が過半割れの大惨敗を喫するなど、社会全体が大きく揺らいだ。

江副浩正氏の証人喚問を受けて開いた記者会見を早々と打ち切り、席を立つ宮沢喜一蔵相(1988年当時、写真:共同通信社)

リクルートの窮地を救ったダイエー創業者の中内功氏

 事件の背景には、社会的影響力を持ちたかった江副氏に野望があったと言われている。

 江副氏はリクルートを急成長させたことから脚光を浴びていたが、財界では傍流の若手経営者の一人に過ぎなかった。当時はまだ重厚長大産業の全盛期。このシリーズのダイエー創業者・中内功(正式表記:力→刀)氏の稿でも触れたが、財界重鎮からは第三次産業など産業ではないと見られていた。それを変え、影響力を持とうと権力の中枢に近づいた、というわけだ。

 もちろん、リクルートも大打撃を受けた。事件発覚時、江副氏は会長職にあったが、間もなく相談役に退き、翌年に逮捕され相談役も降りざるを得なかった。創業者を失ったリクルートは成長に急ブレーキがかかる。しかも悪いことは重なるもので、1991年にバブル経済が崩壊し不動産価格が暴落。リクルート・コスモスは経営危機に陥り、リクルート本体の経営をも圧迫した。

 そこで江副氏は1992年、所有する約10%のリクルート株をダイエーに売却した。当時のダイエーは流通業界の覇者として君臨しており、その信用によりリクルートを再生する道を選んだのだ。

1992年5月、リクルートのダイエー傘下入りで記者会見に臨む江副浩正氏(写真右)とダイエーの中内功氏(左)/撮影:横溝敦

 ダイエーがまだ関西地区のローカルスーパーだった1963年、江副氏は求人広告を取りに中内氏のもとを訪ねた。中内氏は半値に値切って広告出稿に応じ、以来30年、2人の交流は続いていた。どうせ株を手放すなら旧知の中内氏に頼みたい、江副氏はそう考えた。

 リクルートはダイエーの支援もあり無事再建に成功する。前編(「最も成功した東大出身起業家」、リクルート江副浩正が時代の寵児になるまで/2024年3月26日公開)で触れたように、江副氏は人材採用に徹底的にこだわった。そうした選んだ社員を実戦で鍛えた。そのため社内は人材の宝庫。しかも不動産を別にすればビジネスモデルが傷ついたわけではない。信用が回復することで再び成長曲線を描き始めた。

 もっともダイエーにとってリクルート株取得はそれほどのメリットはなかった。唯一あったとしたら、リクルートの人材を活用できたことだろう。その代表が高塚猛氏だ。高卒でリクルートに入りながらも江副氏に目をかけられ、リクルートが経営する安比高原スキー場の経営を任される。ダイエー傘下入り後は中内氏に請われ、福岡ダイエーホークスの球団代表に就任した。

 ダイエーが球界に参入したのは1989年シーズンからだが、10年間は弱小球団だった。ところが高塚氏が着任し、選手の評価方式などを全面的に変えたところ快進撃が始まり、1999年に初優勝。その後は優勝争いの常連となった。高塚氏は後に問題を起こし表舞台から姿を消すが、ダイエー球団強化に果たした役割は大きい。

 後年、高塚氏には何度も取材したが、ことあるごとに会社のエレベーター前での初対面のシーンなど、江副氏を懐かしむと共に尊敬の気持ちを隠さなかった。そしてこれは、江副時代のリクルートを知る社員、OBに共通する思いでもある。リクルート事件で迷惑を被ったにもかかわらず。

江副氏のリクルートでの功績は今なお輝き続けている

「MR会」という団体がある。MRとは「元リクルート」。リクルートは人材輩出企業で、多くの社員が若くして会社を去る。しかし彼らは辞めた後でもOB同士、あるいはリクルートともつながりながら仕事を進めている。

 2000年代に入ってのことだが、筆者の勤務先が主宰する勉強会の講師を江副氏が務めたことがある。ここに数十名のMR会メンバーが集まった。江副氏と再会した彼らはとてもうれしそうで、講演後には江副氏を中心に記念撮影を行った。リクルート出身者にとっての江副氏の存在の大きさを垣間見た瞬間だった。

 しかし事件による逮捕、リクルートとの決別、14年間322回にわたる公判、そして執行猶予付き有罪判決は、確実に江副氏の心を変えた。もともと明るい性格の経営者ではなかったが、それでも未来を信じる陽気さがあった。ところが晩年の江副氏は「猜疑心の強い暗い人」というのが筆者の印象だ。

江副浩正氏(撮影:横溝敦)

 リクルートを去ってからの江副氏は、江副育英会(現・江副記念リクルート財団)代表として活動を続ける。江副氏はオペラのファンで、育英会を通じて支援を行っていた。しかし異常な値動きをする株があると「江副銘柄」との噂がよく流れた。真偽のほどははっきりしないが、育英会運営のためにも、資産運用に関心があったのかもしれない。亡くなる直前に持っていた荷物の中には『会社四季報』が入っていた。

 不動産では手痛い目に遭いながらもやはり関心を持ち続け、2007年には『不動産は値下がりする!』という本を上梓した。この本は、タイトルにもあるように、地価はまだまだ下がり続けると警鐘を鳴らす内容だ。

 出版直後、「著者に聞く」という誌面コーナーの取材で江副氏を訪ねた。場所はリクルートの創業地に程近い新橋の古いビル。質問は当然、著書に書かれている内容に準じたものだったにもかかわらず、江副氏の答えはすべて「いや」と否定語から入る。非常にやりにくいインタビューだった。

 この時だけでなく、何度か江副氏を訪ねて話を聞いたが、いつも同じようなやりとりばかり。こちらの力量不足があるにせよ、一筋縄ではいかないインタビュー相手だった。

 亡くなったのは2013年2月。江副氏は大のスキー好きで、自ら開発した安比高原スキー場によく出かけていた。1月末にも訪れて帰京するのだが、東京駅で誤って転倒して頭部を強打。入院先で肺炎を併発し、息を引き取った。76歳だった。

 その翌年の2014年、リクルートは株式を上場する。初値は1000円程度(株式分割を考慮)だったが、2021年には8180円の最高値を記録し、現在でも6000円台後半だ。時価総額も一時国内4位となった。

 現在、リクルート社内でほとんど唯一江副時代を知るであろう峰岸真澄会長は、日経ビジネスのインタビューに対し、「リクルートという会社が輝けば輝くほど、創業者である江副さんは注目され続ける」と答えている。

 創業から64年。今なおリクルートは人材マッチングサービスの圧倒的ナンバーワンだ。2020年には米国のIndeed(インディード)を買収し、世界のHR企業としてその存在感はますます大きくなっている。峰岸会長の言葉を借りれば、死後10年たつにもかかわらず、江副氏は今なお輝き続けている。

【参考文献】
『かもめが翔んだ日』(江副浩正著)
日経ビジネス電子版「リクルート事件、江副浩正のDNAと功罪(2017年10月30日)