マクドナルドの店舗(写真:森田直樹/アフロ)
いまや子どもから年配者まで誰もが食べる「国民食」となったハンバーガー。これを日本に持ち込み、全国津々浦々にまで広めたのが、日本マクドナルドの創業者・藤田田(ふじた・でん)氏だ。1号店がオープンしたのは1971年。それから半世紀が過ぎ、日本の食文化は大きく変わった。
「必ず失敗する」と言われていたマクドナルド1号店
世界経済を牽引するメガプラットフォーマー「GAFAM」。その多くの創業者がユダヤ系だ。グーグル創業者のラリー・ペイジ、アップル創業者のスティーブ・ジョブス、メタ(旧フェイスブック)創業者のマーク・ザッカーバーグ、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ、いずれもユダヤ系アメリカ人だ。このことからも分かるように、ユダヤ人のビジネスセンスは天才的だ。
今では日本にも多くのユダヤ人が暮らし、また訪れているが、5、60年前までは、ほとんどの日本人はユダヤ人に接したことがなかった。ところがシェイクスピアの「ベニスの商人」はよく知られており、そのため「ユダヤ人は優秀だけど金の亡者」とのイメージが刷り込まれていた。
そんな時代に自ら「銀座のユダヤ人」を名乗っていたのが、「日本ファストフードの父」である日本マクドナルド創業者の藤田田氏(1926─2004)だ。
2001年、事業展開などについて記者の質問に答える藤田田・日本マクドナルド社長(当時/写真:共同通信社)
日本のファストフードは1971年7月20日、銀座三越の銀座通りに面した一角にマクドナルド1号店がオープンしたことから始まった。
極めて小さな店でテイクアウト専門。買った人は必然的に銀座通りをハンバーガーを頬張りながら歩くことになる。今でこそ日常的な風景だが、1971年当時は行儀が悪いと後ろ指をさされる行為だった。そのためオープン前には「日本には定着しない。必ず失敗する」と外食関係者の多くが思っていた。ところがそうではなかった。
マクドナルド1号店のオープン1年前、都内4カ所で歩行者天国が始まった。銀座通りもその一つだった。マクドナルドはそれを追い風として利用した。銀座のホコ天をハンバーガーを食べながら闊歩することが、たちまち若者のトレンドになり、マックは日本の外食の常識を裏切って人気店になっていった。ここから立ち食いソバや牛丼ではない、欧米流ファストフードが日本全国に広がっていった。
このムーブメントを起こしたのが藤田氏で、日本の外食文化に革命を起こしたといっていい。
1971(昭和46)年7月20日、東京・銀座に開店した「日本マクドナルド」の1号店(写真:共同通信社)
藤田流ビジネスの根源にあった「ユダヤの商法」
しかし藤田氏の「常識外れの成功」は、マクドナルドに限った話ではない。
日本マクドナルドは米マクドナルドと、藤田氏が創業した藤田商店の折半会社だった。藤田商店は、輸入雑貨販売を生業としており、売れそうなものなら何でも売っていた。
1969年暮れ、藤田氏は都内のある百貨店に「ダイヤモンドを売らせてほしい」と申し入れた。百貨店側は難色を示したが、最後は場末の店の一角に小さな売り場を1日だけつくった。百貨店側は300万円も売れればいいと考えていたが、実際には5000万円も売れた。その後、この百貨店は、もっといい立地の店で売り場を提供したが、それでも1日1000万円で十分と考えていた。ところが藤田氏は1億2000万円を売り切った。
藤田氏に「販売員」としての特別の能力があったわけではない。卓越していたのは時代の変化を嗅ぎ取る嗅覚だった。
1970年には大阪万博が開かれ、日本の高度成長はピークを迎えていた。それと同時に日本人の嗜好や消費行動も大きく変化しようとしていた。
若者たちは行儀良さよりもアメリカ的自由を求め、ハンバーガーを手に銀座通りを歩くようになった。ダイヤモンドもそれまではぜいたく品の極みだったが、日本人が豊かになるにつれ、ちょっと無理すれば手の届くアクセサリーになっていた。「マックは失敗する」「ダイヤは300万円売れればいい」というのは、それまでの常識だった。しかし時代の変化に伴い常識も変化する。その予兆を察知し、商売にしたのが藤田氏だった。
「マクドナルド」の日本第1号店(東京・銀座)の店頭でハンバーガーを売り込む女性スタッフ(1971年7月/写真:共同通信社)
そのビジネスの根源にあったのがユダヤ人的発想だった。
藤田氏は大正最後の年(15年=1926年)に大阪市で生まれた。旧制北野中学(現北野高校)から旧制松江高校、そして東京大学法学部へと進んだ秀才だ。東大在学中に終戦を迎え、藤田氏は生活費を稼ぐために米軍相手に通訳のアルバイトをする。
米軍の中にはユダヤ人兵士もいたが、たいがい階級が低かったにもかかわらず裕福で、上官に金を貸してもいた。藤田氏はそこに興味を覚え、ユダヤ人と接するようになる。さらにはユダヤ人に弟子入りしてユダヤ商法を学び、「世の中を支配しているのはカネだ」という信念を抱くに至る。
その後、藤田氏は蓄えたお金をもとに藤田商店を設立。日米貿易を行うようになり、ユダヤ人とビジネスをする機会が増えていく。そこで信頼を得たことで、多くのビジネスチャンスが生まれ、藤田商店の業容を拡大していった。ちなみに米マクドナルドの中興の祖でありファウンダーと呼ばれるレイ・クロックもユダヤ系であり、彼がCEOの時に日本マクドナルドは誕生している。
こうした経験を元に藤田氏は、1972年、つまりマクドナルド1号店オープンの翌年、一冊の本を上梓した。『ユダヤの商法』──発行部数82万部のロングセラーだ。
この本の「パート2」では、それまでの藤田氏の足跡が描かれている。前述したダイヤモンド販売のエピソードもそのひとつだ。そして、「パート1」のタイトルは「これがユダヤ商法だ」。そのタイトルどおり、ユダヤ人のビジネスノウハウを丁寧に紹介・解説している。これが、今でも売れ続けている理由である。
章ごとのタイトルからも、そのユニークさがよくわかるので、一部を列挙する。
・78:22の宇宙法則
・生活の中に数字を持ち込め
・「きれいな金」、「きたない金」はない
・現金主義に徹すること
・女を狙え
・口を狙え
・暗算を得意とすべし
・必ずメモを取れ
・契約は神様との約束
・首吊り人の足をひっぱれ “バンザイ屋”商法はユダヤ商法ではない
・時間も商品――時を盗むな
わかりやすいタイトルもあればわかりにくいものもあるが、「女を狙え」「口を狙え」はユダヤ商法4000年の公理だという。現代の感覚からすると性差別的な考え方であり許容されるものではないが、男が働いて稼ぎ女が使う。だから商売するなら女を狙え。そして口に入れるものを扱うビジネスも成功しやすい。前述のダイヤもハンバーガーも、この公理に則っている。
社員に浸透させたマニュアル重視の調理と接客
そして「数字」と「暗算」も藤田氏らしい。というのも、藤田氏のインタビューでは必ずといっていいほど数字が出てくるからだ。しかもその数字がめっぽう細かいうえに、必ず意味を持たせている。
藤田氏が社長を務めていた時も、そして今も日本マクドナルドの本社は東京・西新宿にある。藤田時代の社長室の入り口近くに掛けられたホワイトボードには「50.23m2」と書いてあった。この数字は、社長室の広さだという。なぜそれを掲げているかというと、藤田氏曰く「社員に広さというものを認識させるために書いてある。店を出すとき、何平米というのが、体でわかるじゃないですか」。
こんな話も藤田氏の口からすらすら流れてくる。
「牛肉を焼く鉄板は3.2mm。これが世界のマクドナルドの共通の厚さ。表面温度は摂氏188度。3.2mmの鉄板で2分半焼くと188度の熱さになる。お客から頼まれて品物を出すまでは32秒。客がモノを頼み、辛抱できる時間は32秒。それ以上たつと、客がいらだってくる」
「口の中に入ってくる時、人間が一番うまいと感じる温度は62度。これが63度でも61度でもダメ。水の温度は4度。コカ・コーラのマシンから出てくる温度は全世界摂氏4度と決まっている」
マクドナルドビジネスの基本はマニュアルに基づく調理と接客だ。そしてユダヤ商法を実践し、マニュアルを誰よりもよく理解していたのが藤田氏だった。それを徹底的に社員に浸透させることで、全国どのお店でも均質な商品、均質なサービスが提供できるようになり、顧客の安心感とロイヤルティにつながってファンを広げていった。
マクドナルド1号店が誕生してから今年で52年。当初は若い世代が中心だったが、今ではハンバーガーは全世代の人が食べる「国民食」になった。若い頃から食べている人にとっては、おにぎり以上に親しみやすい、ワンハンドで食べられる食品だ。
そういえば藤田氏はこんなことも言っていた。
「人間の好みというのは、12、13歳までに決まるんです。ご飯で育った人は大人になっても最後はご飯。給食でパンを食べてきた人がマクドナルドの客になるんです。いまに見ていてください。日本人がみなマクドナルドに来るようになりますから。子供のうちからハンバーガーを食べてもらう。それが将来、うちの客になってくれるんです」
その狙いはずばり当たった。
【参考文献】
『ユダヤの商法』(藤田田著)
『月刊BOSS』(2008年5月号)
