ソニー創業者の盛田昭夫氏(写真:Fujifotos/アフロ)

 トランジスタラジオやテープレコーダー、ウォークマンなど独創的な商品開発で日本を代表する企業に成長したソニー(現ソニーグループ)。創業者の一人である盛田昭夫氏は、優れた技術者でありながら無名だった自社ブランドを世界市場に浸透させた立役者でもある。日本の経済界で偉大な起業家として称えられる盛田氏は、いかにして「世界のSONY」を築き上げたのか──。その類まれなる経営手腕とリーダーシップで成し遂げた数々の功績を振り返る。

オンもオフも全開で突っ走っていた

 今でも忘れられないシーンがある。

 京葉線南船橋駅のすぐそば、現在はスウェーデンの家具チェーン「IKEA」の日本1号店がある場所に、かつて長さ500mのゲレンデを誇る世界最大の屋内スキー場「SSAWS(ザウス)」があった。開業は1993年7月。それに先立ち、関係者や来賓、メディアなどを集めたお披露目会が開かれた。

 そこで目にしたのが、かなりのスピードで滑降してくる、ロマンスグレーの年配男性。誰かと思えば、当時72歳のソニー会長、盛田昭夫氏だった。盛田氏が還暦を迎えてからスキーに挑戦したことは知っており、写真も見たことはあったが、しょせんは六十の手習い、大した実力はないと思っていた。その予想をはるかに上回る華麗なターンを見て、思わず「かっこいい」という言葉が口をついて出た。

 この4カ月後、盛田氏はテニスのプレー中に脳出血で倒れ、1999年に亡くなるまで闘病生活を送る。60歳でスキー、65歳でウィンドサーフィンを始め、67歳でダイビングのライセンスを取った。

 仕事で世界中に飛び回るだけでなく、時間があれば仲間を集めて陽気に趣味を楽しむ。オンもオフもエンジン全開で突っ走っていたことが脳出血の遠因とも言われたが、それが盛田氏のライフスタイルであり、この性格と行動力があったからこそ、世界中に知己が広がり、それが「世界のソニー」誕生に大きな役割を果たしたことは間違いない。

信頼し合っていた「井深─盛田コンビ」

 盛田氏は1921年愛知県に生まれる。実家は清酒「ねのひ」で知られる造り酒屋で、盛田氏は当主の嫡男。正月には父と並んで年始客の挨拶を受けるなど、幼い頃から次期当主としての帝王学を学んできた。盛田家当主は代々「久左衛門」を名乗っており、順当に行けば盛田氏は第15代久左衛門となるはずだった。

 その運命を変えたのが、後に盛田氏と一緒にソニーを創業する井深大氏との出会いだった。大阪帝国大学理学部物理学科を卒業した盛田氏は、太平洋戦争中は海軍技術中尉として航空レーダーなどの研究に従事したが、その時に、早稲田の学生時代から天才発明家として知られていた井深氏と出会い、意気投合する。

 終戦の年、井深氏は東京・日本橋に東京通信研究所を設立。その活動が新聞に載った。それを読んだ盛田氏が同研究所に通うようになり、翌年、一緒に東京通信工業を立ち上げる。これが後のソニーである。

(写真:David Lomax/Camera Press//アフロ)

 盛田家の次期当主とベンチャー企業を立ち上げるにあたり、井深氏は盛田家に行き、決死の思いで父親を口説き、東通工入りを納得させたという。これを意気に感じた盛田氏は、天才発明家の夢を実現することが自分の役割であることを以て任じた。ここから、開発は井深氏、それ以外の社業は盛田氏という分業制度がスタートした。

 井深─盛田のコンビは、よくホンダの本田宗一郎─藤沢武夫コンビと比較される。ホンダも本田氏が開発し、藤沢氏が会社の経営という役割分担だった。ただ大きく違うのは2人の仲の良さだった。本田氏と藤沢氏はオフィスが違うこともあり、2人で口を利くことはほとんどなく、社員がメッセンジャーとして両者の間を行き来した。

 井深─盛田は違った。2人は晩年まで仲が良く、揃ってパーティに出席することもしばしばだった。1992年に井深氏は産業人として初めて文化勲章を受章するが、その会見では井深氏の隣に盛田氏の姿があった。当時、すでに言葉が不自由になっていた井深氏をサポートするためだ。

 この会見で井深氏は「自分は好きなことだけをやってきた。嫌なこと、大変なことはみんな盛田さんが引き受けてくれた」と語り、それを聞いた盛田氏が目に涙を浮かべるという一幕もあった。

 創業期のソニー(社名変更は1958年)は、ベンチャー企業の宿命として資金不足に苦しんでいた。金策に走り回ったのは盛田氏で、最後は実家に頭を下げて資金を手当てしてもらっていた。井深氏の言葉を聞いた盛田氏は、当時の苦労が頭の中に去来すると同時にその苦労が報われたと思ったに違いない。

トランジスタラジオの大型受注を断った理由

 そのような苦労が実り、ソニーは日本初、世界初の製品を続々と生み出していく。

 1950年に日本初のテープレコーダーを開発。1955年には当時、補聴器以外に使い道がないと言われていたトランジスタでラジオ(TR55)をつくった。さらに1961年には世界初のビデオテープレコーダー(VTR)、1964年にはやはり世界初の家庭用VTRを開発した。1967年には他社とはまったく違う方式のトリニトロンカラーテレビを開発。トリニトロンは液晶などの薄型テレビに市場を奪われるまで、テレビの王者として君臨した。

1981年、ニューヨークで記者会見した盛田氏。ソニーが開発した巨大な30インチトリニトロンカラーテレビについて報道陣に語った(写真:AP/アフロ)

 1979年には音楽試聴に革命を起こしたウォークマンを発売。この時から、自分の好きな音楽をいつでもどこでも聞けるようになった。

 ウォークマンは井深氏が自分が楽しむために試作したものだが、これを見た盛田氏が「面白い!」と商品化を決断した。社内には録音機能のないテープレコーダーが売れるはずがない、との声が圧倒的だったが、盛田氏はパーソナルに音楽を楽しみたいという若者の嗜好を敏感に察していた。それまで街中でイヤホンをつけているのは競馬中継か野球中継をラジオで聞く「おじさん」だったが、ウォークマン発売後は、ヘッドフォンをつける若者が日常風景となった。

 その後、iPod、そして今日のスマホによるストリーミング試聴へと市場は移るが、これらはすべてウォークマン革命の延長に過ぎない。

 1982年、フィリップスと共同開発したCDを発売。米国人のエミール・ベルリナーが1884年に開発したディスク型蓄音機、つまりレコードの時代の幕を引いた。1989年にはパスポートサイズの家庭用ムービーを、TR55にちなんで「CCD-TR55」と名付けて発売、爆発的ヒットとなり、子どもの学芸会や運動会の風景を一変させた。

1981年にCDフォーマットを発表した際の盛田昭夫氏(左)とオーストリアの指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン氏(写真:Lebrecht/アフロ)

 このように創業期から1980年代にかけてソニーはこれまで存在しなかった製品を次々とつくっては市場を開拓。その成長の過程は「ソニー神話」とまで呼ばれるようになる。

 これも井深氏や、井深氏に憧れて参集した技術陣が「技術上の困難はむしろこれを歓迎、量の多少に関せず最も社会的に利用度の高い高級技術製品を対象とす」(ソニー設立趣意書より)を追求した結果だ。

 だが、技術だけで市場を席捲できるわけではない。ましてや敗戦の焼け野原から出た企業が「世界のソニー」と呼ばれるほど、「SONY」の4文字を世界に浸透させることができたのは戦後日本のひとつの奇跡だ。それを可能にしたのが、盛田氏の執念だった。

 ソニーと世界市場の関係の中で、もっとも有名なのがトランジスタラジオに関する話だろう。

 1950年代、盛田氏は完成したばかりのラジオを持って米国市場に売り込みに行く。その時、現地の時計会社から10万台の注文が入った。いきなりの大型受注だった。ただし条件は、ソニーではなく時計会社のブランドで販売すること。この時、ソニー社内では契約すべきとの声も出た。当時の資金繰りを考えれば当然だろう。しかし盛田氏はソニーブランドとして売りたいと、この話を断った。

 盛田氏はこの時、「ソニーなど誰も知らない。自分たちは50年かけて世界で知られる会社になった」と言った相手に対し「50年前のあなたがた同様、第一歩を踏み出したところだ。50年後には同じくらいに有名にしてみせる」と啖呵を切った。それから50年後、ソニーは時計会社よりはるかに有名になった。

誇りをもって語られた「ソニー・モルモット論」

 ソニーは創業間もない頃から、日本の電機メーカーの中でも海外市場に積極的だった。その背景には、「ソニー・モルモット論」に象徴される日本市場の現状があった。

 ソニー・モルモット論は、評論家の大宅壮一氏が週刊誌に書いたもので、「ソニーが市場を開拓しても、すぐに東芝など大企業が市場を奪っていく。つまりソニーは市場があるかどうかを調べるモルモットだ」という意味だ。

 井深氏はこれに憤慨するが、のちに、市場にない新製品を開発する自分たちはモルモットであるべきと考え直し、ソニー・モルモット論はむしろ誇りをもって語られるようになった。とはいえ日本の消費者は新興企業より伝統ある企業を信用する。しかし海外なら、日本メーカー同士でも横一線のスタートだし、日本より海外のほうが新しい技術や機能を受け入れる素地がある。盛田氏はそう考えた。

 そこで世界市場への本格進出に踏み切るのだが、以降、ソニーは海外においても数多くの「日本初」にチャレンジしていく。

 1950年代、日本製品を海外に輸出する場合、代理店を通すのが一般的だった。しかし盛田氏は、本格進出には現地に拠点を持つ必要がある、と判断、1960年にソニー・アメリカを設立した。日本の電機メーカーでは初の試みだった。

 翌年には株式を米国でも売買できるようにするADR(米国預託証券)の発行が認められる。事実上の米国市場への上場で、日本企業ではソニーが第一号だった。翌年は、ニューヨーク五番街にショールームをオープンする。ニューヨークのど真ん中に日本メーカーがショールームを出すことなど、考えられない時代のことだ。

 さらに1963年、盛田氏は夫人と子ども3人とともに渡米、アメリカに駐在して自ら陣頭指揮を執った。「米国市場を知るには、自ら市場に飛び込む必要がある」と考えたためだ。

 滞在は1年半に及んだが、この間、盛田氏は指導層をはじめ、さまざまなアメリカ人と交流を重ねることで、彼らの考え方に始まり、価値基準、差別意識などを学び、交渉術を身につけていく。この経験が、その後のソニーの国際戦略に大きく役立っていく。

もし盛田氏が“財界総理”に就任していたら…

 米国滞在で盛田氏が学んだのは、自分の考えをはっきりと伝えないかぎり、相手には心を開かないということ。主義や主張は違ってもそれをぶつけ合うことでむしろ相互理解が進んでいく。そこで盛田氏は、滞在中もその後も、米メディアに積極的に登場。ソニー製品をPRするだけでなく、言うべきことを言い、米国のことでも批判すべきことは批判した。

 1970年代、ソニーは家庭用VTRを発売するが、これはテレビ放送の著作権の侵害だと損害賠償訴訟を起こされた。

 一審ではソニーが勝ったものの二審では敗訴、最高裁で争われることになった。この時盛田氏は「著作権侵害ではない、家庭用VTRはタイムシフトマシン」だと主張し、公開討論などにも出席し、持論を訴えた。その結果、最高裁では5対4で薄氷を踏む勝利を収め、これを機にVTRは一気に普及した。同時に盛田氏の知名度も上がり、「米国で一番有名な日本人」として知られるようになる。

 盛田氏の英語はけっして流暢ではない。盛田氏とも昵懇で、同時通訳の第一人者だった村松増美氏(故人)によると、「ボキャブラリーはそんなに多くない。せいぜい中高生程度。だけど何が何でも自分の意志を伝えたい、説得したいという思いが、相手にも伝わった」と語っている。

 こうした「モノ言う盛田昭夫」の集大成が、1989年に石原慎太郎氏と共著で出した『「NO」と言える日本』だ。

 この中で盛田氏は、短期収益主義など米国企業の欠点を挙げて批判。同時に日本にも米国に理解されるための努力が足りないと書いている。同書は日米でベストセラーになるなど、日米関係を語る上でのバイブルとなった。

 このように、盛田氏は生涯を通して米国および世界と関わり続け、海外に対してソニーのみならず日本を発信し続けた。

 惜しむらくは72歳で、脳出血のため事実上のリタイアに追い込まれたことだ。実は倒れた当日、盛田氏は当時の経団連会長だった平岩外四氏(東京電力元会長)から次期経団連会長の打診を受け、受託する予定だった。

 歴史にタラレバは禁物だが、もし健康のまま財界総理に就任し、世界中に広がる人的ネットワークを生かして、日本のPRを続けると同時に世界からの声を日本の政策に反映させるパイプ役を果たしていたら、その後の「失われた30年」はもう少し違ったものになっていたことだろうと思えてならない。

【盛田 昭夫(もりた あきお)/ソニー創業者】
1921(大正10)年生まれ。大阪大学理学部卒業。海軍技術中尉に任官し、井深大氏と出会う。1946年、井深氏と共にソニーの前身・東京通信工業を設立。ソニー社長、会長を経て、ファウンダー・名誉会長。この間、日米賢人会議メンバー、経団連副会長等を歴任。海外の政財界にも幅広い人脈をもち、日本の顔として活躍した。音楽とスポーツと家族をこよなく愛し、1998年米タイム誌「20世紀の20人」に日本人として唯一選ばれる。1999年死去(享年78)。

※(後編)では、盛田氏が成し遂げた世界初の「エレキとエンタメの両輪経営」について紹介します。