切り紙絵までの変遷
1920年代はロシアのバレエの衣装や舞台装置、模様のある背景と人物という装飾的な「オダリスク」、そして神話を主題とした作品に取り組んだ後、1930年代、61歳から70歳の時期は、彫刻、壁画、挿絵、タピスリーなどに挑戦し、晩年の切り紙絵へと向かいます。
この時期のトピックにバーンズ財団の依頼でシチューキン邸の壁画《ダンスⅡ》(1909年)と同じ主題《ダンス》(1932-33年)に取り組んだことがあります。1931年から構想していたのですが、翌年になってサイズが違うことに気がつき、新たに描き起こしました。これはバーンズ財団のメインルームに設置されています。このダンスのためにマティスは多くの習作を描きます。そして塗り直しの手間を省くために初めて色を塗った紙片を組み合わせる手法を使いました。
サイズ違いの《未完のダンス》(1931年)は破棄されたと思われていましたが、1992年に発見されました。また、バーンズ財団に作品を設置したあと、マティスは《未完のダンス》をカンヴァスに移して《パリのダンス「ニンフたち」》(1931-33年)として完成させます。これらをパリ市が購入し、《未完のダンス》《パリのダンス「ニンフたち」》は現在、パリ市立近代美術館が所蔵しています。
ドイツ軍がパリを占領した1940年、71歳のマティスは国を離れず、第二次世界大戦中もニースに留まります。翌年、十二指腸癌の手術を受けて体力が衰えたことから、これ以降、助手がグアッシュで彩色した紙を切り抜いて貼り合わせた切り紙絵の作品と、デッサンを中心に制作するようになります。
デッサンはデッサン集『テーマとヴァリエーション』(1941年)として結実し、20点の切り紙絵と手書きの文章を組み合わせた本『ジャズ』(1947年出版)で、マティスは切り紙絵という新たな表現の確立を世間に知らしめました。
切り紙絵は、切り抜いた紙を台紙と組み合わせてアトリエの壁面にピンなどで仮止めしてマティスは作品を制作しました。そして小規模なユニットを組み合わせてより大きな画面へと拡大していき、建築的な空間を生み出したのでした。
1946年から48年には、《大きな赤い室内》(第3回参照)など油彩の室内画群を制作しています。