源頼家像

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

17歳で2代目「鎌倉殿」となる

 鎌倉幕府の2代将軍となる源頼家は、寿永元年(1182)にこの世に生を受けました。父は、源頼朝、母は北条政子です。頼家が生まれた寿永元年というと、頼朝が平家方に挙兵(治承4年=1180年)してから2年後のことです。

 治承・寿永の内乱(源平合戦)の真っ最中に生まれた頼家ですが、彼自身が参戦することはありませんでした。頼家の乳母には、比企尼の娘が選ばれました(梶原景時の妻も、頼家の乳母として選ばれていました)。

 比企尼は、頼朝の乳母であり、頼朝が伊豆国に流罪となっていた時に、長年、支援していた女性です。頼朝は、その恩を忘れていなかったのでしょう。比企尼の甥でその養子ともなった比企能員は、頼家の側近にもなります。頼家は、武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡)の有力御家人・比企氏と深い繋がりを有することになったのです。

 比企能員の娘・若狭局は、頼家の妻妾になり、長子・一幡を産んでいます(1198年)。比企氏との強い繋がりが、後に、頼家を悲劇の底に突き落とすことになろうとは、父・頼朝は想像していなかったでしょう。梶原景時や比企能員、そして北条氏(頼朝の妻・北条政子。政子の父・時政)らが、その勢力を上手く保ち、頼家を支える体制が、頼朝の理想だったはずです。

 頼朝は、娘を天皇の妃にしたいという野望を抱いていましたが、それを達成することなく、建久10年(1199)1月に、病死します。この時、頼家は17歳でした。頼朝は、死ぬならば、もう少し、頼家が成長してからという想いを抱いたかもしれません。が、運命とは残酷なもの。若くして頼家は、父・頼朝の後継として2代目「鎌倉殿」となるのです。

 17歳というと、今で言えば、高校2年生になる年頃。現代において、そのくらいの年齢で起業し、社長として働く高校生はいます。例えば、想空さんは、15歳の時に株式会社SOSを立ち上げ、その社長としてビジネスを展開してきました。

 彼女は、おもちゃや文房具に広告を入れて子どもたちに無料配布するビジネスを展開。1年目の売り上げは、約3千万円に及んだというから、凄いものです(「高校生と社長の二刀流」『神戸新聞』2022・8・1)。鎌倉幕府のトップとなった頼家と比較するのもおかしいかもしれませんが、高校生でも、いやもっと若くても、他から抜きん出て、バリバリと頑張る若者はいるのです。