「古典のない国」は衰亡の兆し

 最後に「古典のない国」の悲惨を記しておきます。

 本当はどの文化、どの言語にも豊かな古典は存在するはずです。ただ、現在のフィリピンとか、北朝鮮などには、残念ながらそういう文化の脈動が十分繋がっているとは言い難い。

 これは、ホセ・マセダ、イサン・ユンなど当該言語を背景とする作曲家の先輩たちから聞いた話を記すものです。

 かつて野口悠紀雄さんがおっしゃっておられました。

 日本の明治政府は「言語の壁」という「非関税障壁」を作った。そのことで、最終的には20世紀初頭までに、日欧米圏で唯一の列強の仲間入りをするまでに、国力を伸ばすことができた・・・というのです。

 ここでいう「非関税障壁」とは何か?

 例えば、フィリピンとかラテンアメリカを考えてみましょう。

 スペイン語、ポルトガル語あるいは英語など、欧州宗主国の言葉がそのまま国内市場に土足で入ってきますから、国内産業が育つ暇を与えてもらえません。

 この点、日本は良くも悪しくも「英語」すら通じないマーケットであり国情です。外資が日本で本当にビジネスしようと思ったら、まず「日本語」を何とかしなくてはならない。

 フィリピンにもベトナムにも様々な伝統、宮廷音楽から口承文芸まで、国際社会に誇りうる民族文化があるはずです。

 しかし、それを伝える固有の文字や言語、「古典」の体系が骨格をなさないと、世界に発信することができません。

 30年ほど前、PMFというレナード・バーンスタインのサマースクールで、フィリピン人の同世代作曲家コンラート・デル・ロザリオから聞いた悲しい話を引いておきます。

「日本には『母国語』や固有の文字、『民謡』という者があってうらやましい。自分にはスペイン語の名前しかないし、子供の頃から耳にしてきたのは米軍のジュークボックスから流れるポップスで、民族の固有文化に相当するものが身の回りにない・・・」

 同様に、現在の中国や北朝鮮を考えてみれば、中国は文化大革命その他で本当の伝統を破壊してしまったし、北朝鮮は現支配層がここ数十年でにわか作りした「文化」で社会を塗り潰すことで、本当の伝統の豊かさが払底している状態と思われます。

 国家が、底の浅い、インスタントでペラペラの「コンテンツ」しか持ち得ないとき、どれほどその国民の知的な奥行きが制限されてしまうか。罪の深い話です。

 端的に言って北京オリンピックの開会式は世界の顰蹙を買うか、単に笑われるかが大半だったと思います。

 何の文化の深みもない。残念ながら東京五輪も1964年にはあったもの、黛敏郎さんから三島由紀夫、岡本太郎まで、文化の根っこに手足の届く人が作る歴史に残るレガシーの大半が、2021年には消えてしまっていた。

 実際、あとにはコンクリートと借金以外、ほとんど残っていないじゃないですか。これが何を意味するかというと・・・。

 近づいているわけです。あっち側に。

 欧州の人々は「アメリカにはゲーテ(ドイツ)もシェイクスピア(イギリス)もラシーヌ(フランス)もいない」と、伝統と古典が不在の、根の浅い文化を軽視する傾向が(表立って口にすることは少なくとも)現在でもはっきり残っています。

 21世紀に入ってここ20余年、東大生に限っても「忠臣蔵」や「大石内蔵助」などの固有名詞が全く通じない学生が大半を占めるようになりました。

 4月、新入生に挙手してもらうと、本当に誰も知りません。今年の実例では「夏目金之助」が通じませんでした。

 こういうことは単なるノスタルジーで言うのではなく、文化の創造性が根本的に枯渇しかけているので、真剣に記すのです。

「IT革命」に始まり、スマートフォンなどが一国の文化を根腐れさせかけている。

 目の前で発生している「文化の進行ガン」状況と指摘しなければならないでしょう。

 欧米のキリスト教常識は、仮にスマホがどれだけ普及しても、教会にはジジババしか行かなくなっても、そこそこ保持され、倫理の裏打ちとなっていることを想起すれば、そういう背景を共有しない日本の学校で「いじめ」がなくならないのは、ナチスがユダヤ人を排撃したのと同様、人類が生得的に持っているリスクが必然的に顕現しているものと理解されます。

 ごく当たり前に「遅れた状況」、民度の低い社会への退行として理解するべきかもしれません。

 こうした兆候が日本全体の衰亡、さらにはフィリピンや北朝鮮の悲惨、つまり固有の文化に立って世界に発信できない国家への凋落に結びつかないよう、対策を講じるべきでしょう。

 親や指導者など責任ある世代の皆さんは、気を引き締めていただきたく、声を大にしてお伝えしたいと思います。