「広辞苑」と集合的無意識

 さて、ここまではもしかするとZ世代も必要を認めるかもしれない「現国」ですが、Simejiの感想で評判が悪かった「古典」はどうでしょう?

 あんなもの役に立たないのか、あるいは「使え」またどう生活の中に「生かせる」のでしょうか?

 3つの観点から説明してみましょう。

 一つ目は、まず「言語」というのは決して固まったものではないこと。

 常に新しい語彙や言い回しが生まれ、古いものは少しずつ廃れ、片時もじっとしていない。そしてそれらを「生み出す」水面下にある、言語の集団的無意識について触れておきます。

 ちなみにAIにはこれが一切存在しない。だからAIは勝手に新語を創作したりできない。単に学習した内容を組み合わせるパッチワーク以上のことが決してできない。

 さて、少し古いですが2017年、岩波書店の「広辞苑」が10年ぶりに取り入れた「新語」を見てみると、「スマホ」「ツイート」「朝ドラ」など、いかにもなモノが並んでいます。

 こういう言葉を「AI」は決して創り出さない。

 こういうもの以外でも「価格帯」「加齢臭」「婚活」「雑味」「万人受け」「惚れ直す」といった言葉は古くからありそうですが、実は21世紀になって創り出されたり、盛んに用いられるようになったものとして「広辞苑」は列挙しています。

 こういう単語、自然に見えませんか?

「加齢臭」という言葉は20世紀には用いられていなかった。これはまた2050年代のAIは、いま2020年の常識で学習させられたAIでは、ピント外れの「平成・昭和なじいさん・ばあさん」に見えるということでもある。

 いま50代以上の人は、子供の頃(1970、80年代)まだ「明治生まれ」のお爺さんお婆さんが身近にいたはずです。

「38式歩兵銃」とか「過ぎし日露の戦いに」なんて台詞が落語の中ではテレビでオンエアされていた。

 AIは5~10年もするとアタマが古くなるのでシステム全体を取り替えなければならなくなるので、ハードの投資はそこそこにしておかないと、後々減価償却で困る可能性があることなども、まだあまり媒体には出てませんから、老婆心から付記しておきます。

 さて、こういう「新語」を創り出すのが、人間集団が持っている、ある言語に関する「集合的な無意識」というやつです。

 実は私が作り(少なくとも自分で考え)媒体で普及した言葉もあります。

 例えば「好循環」という言葉はすでに存在する「悪循環」の対語のような顔をして、大学任官直後に書いた政府の文書やコンサルティングとしてのリポートで造語したら広まった。

 単に私が作るだけでは広まりません。それを受け止める社会の集合的な無意識がこれを受け入れてくれないと、決して広まっては行きません。

 それ以外にも「いらっと」「がっつり」「小腹が空く」「ちゃらい」などという表現が新語として加えられている。

 これも、一人ひとりの個人ではなく、社会の琴線に触れ、長く使われるようになった。

 こういうダイナミズムがあることを知るのは大事なことです。言葉は常に生まれ、また常に古び続けていく。

 昨日の常識は明日の時代遅れ、明後日は「古文」扱いで、森鴎外や尾崎紅葉、北村透谷など、現代文として読むのはすでに厳しいかもしれない。

 このようにリアルタイムで言語は時々刻々動いています。

 そして、こんなふうに多くの日本(語を母国語とする)人が、意識の表層に上らせないのに、なぜか特定のイメージをもって、昔から知っているような錯覚を持つ言葉を活用すると、マーケティングや市場のシェア確保に役立つ事例も少なくない。

「新語」は、実は「古い日本語」を通じて日本(語を使う)人の意識の底に結びついているのです。具体例を挙げましょう。