1.核施設への軍事攻撃等の事例

 以下、イラクのオシラク原子炉空爆(1981年)、シリアのアルキバル原子炉空爆(2007年)、イランのウラン濃縮用遠心分離機に対するサイバー攻撃(2010年)、イラン・ナタンズ核施設に対する破棄工作、2度目のイラン・ナタンズ核施設に対する破棄について順次述べる。

 オシラクとアルキバルの地理は下図1の通りである。

図1:オシラクとアルキバルの地理

筆者作成

(1)イラクのオシラク原子炉に対する航空攻撃

 イスラエルは、イラクの核兵器製造を妨害する目的で、イラクのバグダッド近郊で建設中だったオシラク原子炉に対し、航空攻撃作戦(バビロン作戦)を実施した。

 1981年6月7日午後4時、2000ポンド(908キロ)の「Mk-84」爆弾を2発ずつ搭載したイスラエル空軍の「F-16」戦闘機8機が、護衛の「F-15」戦闘機6機を伴いシナイ半島東部のエツィオン空軍基地から飛び立った。

 当時のF-16にはレーザーを照射する機能が備わっておらず、レーザー誘導爆弾が使用することができなかったため無誘導爆弾が使用された。

 また、F-16の航続距離では標的まで余裕がなく、かつ空中給油機を保有していなかったため、滑走路端で離陸直前の機体に給油をするという危険な手段が取られた。

 イスラエルからイラクへ飛ぶには、他国の領空を通らなくてはならない。

 イスラエル軍のパイロットたちは、サウジアラビアの領空を通過する際に、サウジ空軍の無線の周波数を使いアラビア語で交信して、航空管制官や防空部隊に正体を察知されるのを避けた。

 攻撃部隊は離陸から約3時間後に、バグダッドの南東17キロにあるアル・トゥワイタ原子力センターの上空に到達した。

 ここでイラクはフランスの協力を得て、「オシラク」という軽水炉を建設していた。

 イスラエル機は、18時35分にオシラク原子炉への攻撃を開始。

 8機のF-16は合計16発の爆弾を投下し、そのうち8発を格納容器がある建物に命中させた。

 この攻撃によって原子炉周辺にいたイラク兵士10人とフランス人技術者1人が死亡した。

 だが原子炉の中にまだ核燃料がなかったため、放射性物質が外部にまき散らされてイラク市民に被害が及ぶ事態は起きなかった。

 爆撃はわずか2分間で終了した。イラク軍は奇襲攻撃に反撃することができず、戦闘機のパイロットたちは全員が無事に帰投した。

 イラクは当初どこから攻撃を受けたか特定できず、当時イラン・イラク戦争(1980~1988年)で交戦中のイランからの攻撃も疑ったとされる。

 イスラエルのメナヘム・ベギン首相は爆撃の2日後の記者会見で、イラクが建設中の原子炉を攻撃したことを認め、この攻撃を「自衛手段」として正当化した。

 彼は、「将来も自国を核攻撃から守るために敵の核武装を未然に防ぐという先制的自衛(pre-emptive self-defence)戦略を言明した。

 この戦略はしばしば「ベギン・ドクトリン」とも呼ばれる。