『枕草子』に登場
宣孝の家柄は、各国の受領(国司)を務める中級貴族だという。
宣孝は博識で優秀な官人であり、舞人としての才にも恵まれていたようだ。渡辺大知が演じる藤原行成の日記『権記』長保元年(999)11月11日条によれば、宣孝は賀茂臨時祭調楽で人長(舞人の長)を務め、「甚だ絶妙である」と賞賛されている。
宣孝は、ファーストサマーウイカが演じる清少納言(ドラマでは「ききょう」)作の『枕草子』に登場する。
『枕草子』「あはれなるもの」の段によれば、御嶽詣ではどんなに身分の高い人でも、目立たぬ身形(みなり)で参詣すると聞いていたのに、宣孝は「御嶽の神様も『身なりを悪くして参詣せよ』とはおっしゃるまい」と言い、宣孝は濃い紫色の指貫(ズボン)と白い狩衣に山吹色の派手な衣を纏い、息子の隆光は青色の上衣の下に紅色の衣に水干袴という目立つ装束で、参詣した。
参詣で宣孝・隆光父子を見た人々は、「こんな姿の人は見たことがない」と驚いたという。
だが、その後、宣孝は藤原知章の後任として筑前守となったので(『小右記』正暦元年8月30日条)、「宣孝の言ったことに違いはなかった」と話題になったと清少納言は綴っている(『枕草子』は、宣孝が筑前守になったのは「六月十余日の程」と記す)。
宣孝は正暦5年(994)には筑前守の任期を終え、帰京したと推測されている。
その後、長徳4年(998)に山城守となるまで、宣孝がどんな官職についていたのか、もしくは散位していたのか、いっさいわかっていないという(角田文衞『紫式部伝——その生涯と『源氏物語』——』)。
紫式部との結婚
一方、紫式部は長徳2年(996)、数えで24歳ぐらいのとき、父・藤原為時の赴任先である越前国に下向した。宣孝は越前の紫式部のもとに、求婚の書状を送った(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
紫式部は長徳4年(998)頃、父・為時を残して帰京し、まもなく宣孝と結婚したとみられている(服藤早苗 東海林亜矢子『紫式部を創った王朝人たち——家族、主・同僚、ライバル』所収 服藤早苗「第六章 夫藤原宣孝——異色を放つ夫」)。
しかし、宣孝には紫式部以外に正妻がおり、紫式部とは同居していなかった(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。
二人は痴話喧嘩をすることも多く、紫式部の家集『紫式部集』には、宣孝が「立てどかひなし(おまえには勝てない)」と降参する歌も収められている。