(歴史ライター:西股 総生)
急速建造が実現した秘密
(前編からつづく)突如出現した城に北条側が肝を潰した、という話がガセだしても、秀吉が石垣山城を80日間で、どうにか城として使える状態まで持っていったのは事実だ。大勢の人足や職人を動員しての突貫工事であったろう。
ただ、この驚くべき急速建造が実現したのにも、ちゃんと理由がある。秘密は、石垣山城の立地に隠されている。石垣山城は、箱根の山から海に向かって伸びる尾根の一角にあって、城の北面は早川に臨む崖となっている。
ご存じのように箱根は活火山で、太古の昔に何度か大噴火を起こして大量の溶岩を噴出し、山体が陥没して巨大なカルデラとなった。石垣山城が乗っている尾根は、このとき流れ出した溶岩が固まってできたものだ。
そして、巨大なカルデラ湖が決壊して東へ流れ下った跡が早川の谷筋で、カルデラ湖が流れ残った「水たまり」が芦ノ湖だ。つまり、石垣山城が築かれたのは、冷えて固まった溶岩流の末端が、早川の崖に面して露出している場所なのである。実際、石垣山城直下の崖面から城の西側の山林にかけて、江戸城を築いたときの石切場跡が広がっている。
おわかりだろうか? 石垣山城は、石切場がそのまま築城の工事現場になっているのだ。そこに大量の人手を動員すれば、短時間で立派な石垣ができあがる、という寸法だ。では、秀吉はなぜ、この場所に本格的な城を築こうと思ったのか?
事実関係を、時系列に沿って整理してみよう。秀吉が山中城を攻略して、小田原への進撃路を切り開いたのが3月29日。豊臣軍の先鋒が小田原西方に進出したのが4月3日で、秀吉が早雲寺に本陣を置いたのが4月5日。石垣山城の普請も、ここから始まる。
一方で豊臣軍の諸隊は、地形的に重要なポイントを占領するため、北条方と小競り合いを繰り返しながら小田原城包囲陣を形成していった。ただし、小田原城を囲む巨大な惣構(そうがまえ)は攻撃できていない。軍事的常識にしたがって考えるなら、この時点で豊臣軍が勝利できる保証はどこにもなかったことになる。
もちろん豊臣軍は大軍だ。大軍であることは「有利な要素の一つ」ではあっても、勝利を保証する条件にはなりえない。実際、少ない兵力で大軍を打ち破った例など、歴史をひもとけばいくらでも見つかる。そして、地の利はホームで戦う北条方にある。
小田原城包囲陣が形成されつつあった4月上旬の時点では、北条軍の逆襲によって豊臣軍の包囲陣が突き崩される怖れは充分にあった、と見なすのが正しい。だとしたら、豊臣軍の各隊が最優先でしなければならないのは、敵の逆襲に備えて陣場を固める作業である。もちろん、秀吉の本陣とて例外ではない。
北条軍の逆襲や外部からの来援、その他不測の事態によって豊臣軍の包囲陣が崩れた場合でも、全軍が雪崩をうって敗走する事態を食い止め、秀吉の安全を確保する。これこそが、石垣山城が必要とされた理由である。そんな時に、小田原城を見下ろす場所に石の取れる山を見つけたのだ。秀吉は、ほくそ笑んだにちがいない。
一方、小田原城内の北条軍は、堅固な包囲陣が着々と築かれてゆく様子を見ていたことになる。石垣山城こそは、その包囲の環を固く閉じるためのラストピースであることも、理解したはずだ。包囲環が完全に閉じられれば、逆襲や外部との連携によって豊臣軍を突き崩すオプションは失われる。6月下旬にいたって北条側が開城降伏を決断したのは、戦局を総合的に判断した結果でしかない。
立派な城が突如出現したことによって北条側が肝を潰しただの、秀吉の権力を見せつける築城だのとうのは、秀吉の天下取り物語をわかりやすく飾り立てるために「盛った」話でしかない。
歴史学は人文科学の一分野であり、科学である以上は合理的思考を重視しなければならない。にもかかわらず、歴史学者たちが軍事的合理性に基づく思考を怠ってきた結果、通説としてはびこってきたのが、石垣山一夜城の「伝説」なのである。