人材育成や採用、労務管理、組織マネジメントなどの人事課題は今や経営課題と言われる。さらにニューノーマルの時代での新たな働き方という課題も加わった。こうした中、人事部門としてはどこに注力し、どんな姿を目指していくべきなのだろうか。日本企業だけでなく、グローバル企業の経営にも精通する慶應義塾大学大学院経営管理研究所 特任教授の岩本隆氏に、企業の経営課題や人事部門に求められる役割について話を聞いた。
急増する“燃え尽き症候群”の
対策の鍵は
ウェルビーイングの向上
岩本氏は「世界の企業の喫緊の課題になっているのは“燃え尽き症候群”への対処です」と最近の変化を語る。テレワークではメンタル面での不調が自覚しづらく、周囲も気が付かないケースが多い。そのまま仕事を詰め込み過ぎて精神的なバランスを崩してしまう従業員が増えているのである。
そうならないための気づきを得るという意味でも注目されているのが、従業員が身体的・精神的・社会的に良い状態にあることを示す「ウェルビーイング」だ。岩本氏は「従業員エンゲージメントとウェルビーイングのバランスが重要です」と指摘する。
特に注意が必要なのはウェルビーイングの深刻さだ。従業員エンゲージメントが高く、ウェルビーイングが低い場合には“燃え尽き症候群”になりやすい。海外の企業ではあらゆる方法でウェルビーイングを高める取り組みが始まっている。
「今不足しているのは雑談です。クラウド上で雑談できないかという試みも多くされていますが、意外に有効なのはタレントマネジメントツールだったりします」と岩本氏は指摘する。タレントマネジメントツールに登録されているスキルを話のネタに、社内リクルーティングを兼ねて雑談の輪を広げたりできる。
しかし、日本では欧米のようにリンクトインに自分のキャリアやスキルを登録するといったことは広がっていない。そもそもスキルの棚卸しをしている人自体が少ないのではないだろうか。この手法はHR Techの広がりとともに今後に期待がかかる。
もう一つのウェルビーイングにつながるコミュニケーションが、従業員のノウハウをシェアすることだ。eラーニングのコンテンツを揃えるだけでなく、従業員を講師とした社内研修を積極的に仕掛けることで、仕事への誇りを意識させることができる。
「それだけはありません。従業員の強みがわかって組織力の向上につながり、さらに社内に雑談が生まれるきっかけにもなります。グローバル企業であれば海外の従業員とのネットワーク作りにもなります」と岩本氏は語る。
また、マネジメントにも大きな変化が見られる。人間が幸せを感じるのは、自分自身が自主的に取り組み、なにかの役に立っていると思えるときだ。「そのためには部下が自立できるようにサポートすることが必要です」と岩本氏は指摘する。
求められているのは引っ張るマネジメントではなく個々に寄り添うマネジメントだ。まさにタレント事務所のマネージャーのような役割を担う。これまでのような目標管理ではなく、ウェルビーイングがマネジメントのコアに変わっていくことになる。
人事管理を中心とした
“HR Tech”から
働くことをサポートする
“Work Tech”へ
従業員エンゲージメントやウェルビーイングを向上させるためには、それらを測定できる仕組みが必要になる。これまでのような勤怠管理や給与管理のような人事管理の枠組みでは、測定できないことは明らかだ。心身の健康状態を把握するためには、健康診断やメンタルヘルスチェックでも十分ではない。
「こうした課題に応える概念として登場したのが“Work Tech”です。人事部門だけでなく、総務部門や経理部門など間接部門が連携して働く場所であるワークプレイス全般をサポートするソリューションです。ツール自体はバラバラでも連携させて利用することによりトータルで運用していくイメージです」(岩本氏)。
Work Techでは、勤怠管理から雇用契約書管理、経費申請、オフィスツール、Web会議など働くことに関連するあらゆるツールが従業員を軸に統合される。人事部門がメインになり、そこに総務部門や経理部門、情報システム部門が連携する形で作られることが多い。
Work Techの最初のステップはテレワークでも従業員がストレスなく働ける環境を整えることだ。その次にウェルビーイングをケアする仕組みを用意していくことになる。岩本氏は「さらに進んでいる企業では、メンタル面での障害が起きる前のメンタルケアに注力し始めています」と語る。
こうしたHR TechからWork Techへという流れの中で、最も重視されているのが従業員エンゲージメントとウェルビーイングを可視化することだ。キャリア充足度を測って従業員エンゲージメントと付き合わせるなど、様々な工夫が広がっている。
「従業員エンゲージメントを測定するサーベイは色々なものがありますが、ウェルビーイングは指標づくりに各社の競い合いが始まっているところです。今後は雑談する場を作り出し、そこでのコミュニケーションを計測するツールも登場してくるでしょう」(岩本氏)。
人に関連したデータを活用して
人事部門が業績向上に貢献できる
Work Techでは様々な活動を測定し、可視化していくことになるが、どんなデータが重要なのだろうか。岩本氏は「すべてのベースはフィジカルな健康だと言われますが、まさにそうです」と指摘する。従業員エンゲージメントやウェルビーイングを考える上でも、フィジカルなデータが最も重要になる。
定期健診のデータは当然ベースになるが、フィジカルという側面では日々の栄養や休養、運動のデータも活用したいところだ。すでにこうしたデータを収集している企業は多い。万歩計を従業員に持たせたり、階段での昇降データを計測したりする企業もある。栄養データを取得する場として社員食堂を利用するケースも有る。
「画像技術を駆使して、顔写真から健康度を測ったりするツールも使われています。従業員に意識させることなく、日々の活動からフィジカルなデータを取れるような仕組みを利用するべきでしょう」と岩本氏は話す。
健康経営の広がりを見ても、従業員が健康な企業は業績が良いというのはすでに常識だろう。同様にエンゲージメントやウェルビーイングも、企業経営にとって大きなテーマなだけに、そのデータとどう向き合うのかが重要になる。
岩本氏は「キャリア充足度や従業員満足度といったデータを統計解析することで、各部門の経営課題を明らかにすることができます。それを人事部門が活用して、各部門に経営課題の解決に向けた取り組みを提示することも行われています」と現状を語る。その前提となるのがデータを計測することだ。その上でPDCAを回して継続的な改善を図ることができる。
従業員エンゲージメントを測定するツール、Emlpoyee Experience(EX)ツールでは、すでにそうした活用が始まっている。EX 1.0は一般的なサーベイで、EX 2.0はパルスサーベイ*的な計測、EX 3.0はデータを分析してアクションまでつなげる。その先のEX4.0は課題解決まで目指すものだ。
*パルスサーベイ…従業員の満足度を高頻度で測定するための意識調査
EX 4.0では課題に対する対策をAIがリコメンドするアクションプラットフォームが作られ、そこに課題とアクションのデータが蓄積され、PDCAサイクルを回すことでさらに精度向上を図る。すでにEX4.0に取り組み、業績向上につなげている日本企業も出てきているという。
岩本氏は「人事がカバーしなければならない範囲は大きく広がっています。知見がない専門領域についてはツールを使って分析し、フィジカル、メンタル、ハピネスを人事がリードできるようになることが求められているのです」と語る。データに基づいた人事部門が企業の将来を担う。そういう時代が訪れているのである。