福原義春氏(1997年撮影、写真:Kaku Kurita//アフロ)
資生堂元社長・会長の福原義春氏が、8月30日、老衰のため92歳で亡くなった。福原氏は、長年企業の社会貢献活動の旗振り役を務めるなど、とりわけ「文化人経営者」としての評価が高かったが、創業家社長として今につながる資生堂の方向性を定めた最大の功労者でもあった。
バブル時代の「アグレッシブ経営者」とは対極にいた福原氏
今ではほとんど死語になったが、「メセナ」という言葉が盛んに使われていたことがある。企業の社会貢献活動のひとつで、文化・芸術活動への支援を意味する言葉だ。
流行したのは1989年から1990年代前半にかけて。1990年には企業メセナ協議会が設立され、1991年からは日本メセナ大賞が創設された(現在もメセナアワードとして存続)。
時はバブル経済のピーク。株や不動産を持つ資産家を中心に、多くの人が狂乱景気に浮かれていた。企業も黙っていても利益が出た。そのため、資産を持たずバブルの恩恵に預かれなかった人からは、企業に対する儲けすぎ批判が起きていた。
一方、企業の側でも「利益を出しても法人税に持っていかれる。だったら人に感謝される使い途はないか」という機運が起きていた。何しろ1980年代の法人税率は40%台、1990年でも37.5%と高かった(現在は23.5%)。メセナは、そんな企業にとってうってつけの社会貢献活動だった。
このメセナの旗振り役だったのが、資生堂元社長・会長の福原義春氏だった。企業メセナ協議会誕生時より会長を務め、亡くなるまで名誉会長職にあった。
福原氏ほど、メセナの中心人物にうってつけの人はいなかった。祖父は資生堂創業者の福原有信氏、伯父が初代社長の福原信三氏という血筋の良さ。自らも幼稚舎からの慶應育ちで、慶應大学経済学部を卒業して資生堂入社。1987年に社長に就任、1997年に会長となる。
資生堂は1919年に資生堂ギャラリーを開設するなど、古くから芸術文化支援を行ってきた会社だ。いわばメセナがブームになる前からメセナ活動をやってきたのだから、創業家の福原氏が企業メセナ協議会のトップに就任するのも半ば必然だった。
趣味人でもあった。中でもらんの栽培は玄人はだし。毎年東京ドームで開催されていた「世界らん展」(現在は東京ドームシティプリズムホールで開催)にも自ら育てたらんを必ず出品していた。小唄もたしなみ、銀座のだんな衆が集まる「銀座くらま会」が年に一度、新橋演舞場で行う公演では、毎年、美声を響かせていた。
玄人はだしだった、らんの栽培(1997年撮影、写真:Kaku Kurita//アフロ)
生まれや育ちの良さもあってか、非常に温厚な経営者というのが、今から思い返しても真っ先に浮かんでくる印象だ。取材に対しても、じっくりと質問に耳を傾け、丁寧な言葉で返してくる。バブル時代にはイケイケどんどんのアグレッシブな経営者も多かったが、福原氏はその対極にあった。
「13期連続」も可能だった増収増益決算をあえて見直したワケ
しかし、福原氏は人がいいだけの経営者ではなかった。時には剛腕を振るい、今に続くその後の資生堂の方向性を定めた人でもあった。
写真:AP/アフロ
福原氏が社長に就任したのは1997年7月のこと。通常、社長に就任するのは4月1日付、あるいは6月の株主総会当日だが、7月に就いたのは、前任社長が急死したためだ。福原氏は5カ月前に副社長に昇格したばかり。将来の社長は規定路線と見られていたが、本人もこのタイミングとは思っていなかった。
このような緊急登板の場合、前任者の路線を引き継ぐのが一般的。何しろ準備が整っていない。前例を踏襲しながら、徐々に自分の色を出していくものだ。
ところが福原氏は、就任3カ月後には決算見通しの大幅下方修正を行った。当時の資生堂は12期連続の増収増益決算だった。時代はバブル。無理をすれば13期連続も可能だった。しかし当時の資生堂は表面上の好調さとは裏腹に、販売会社が過剰な在庫を抱えていた。いわば資生堂は販社に商品を押し込むことで、見かけ上の増収増益をつくっていた。福原氏はそれを見直して下方修正を断行。そしてその後の減益決算という汚名を甘んじて受けた。
これは福原氏がサラリーマン社長ではなく創業家社長だからこその決断だった。サラリーマン社長なら、自分の在任中だけはいい業績を維持したいと考えるのが普通で、だからこそ資生堂の販社在庫は積みあがっていった。
その点、創業家社長は、短期ではなく長期で経営を見ることができる。というより、自分の子どもでもある会社に未来永劫発展してほしいと願えば、短期的な利益に意味はないどころか、現実を糊塗することでデメリットのほうが大きくなる。福原氏もそう考えたのだろう。
そして下方修正までの時間が極めて短かったのは、将来の社長就任を見越し、自分が経営トップに立ったら何をすべきか、常に自問自答していたからに他ならない。だからこそ、前任者の急逝により社長就任が本来の予定よりも早まったにもかかわらず、会社にメスを入れる決断を素早く下すことができたのだ。
「女性だから管理職ができないというのは、とんでもない間違いだ」
もう一つ、福原氏の功績として指摘したいのは女性登用だ。資生堂は女性が活躍する会社として知られている。15人いる取締役・監査役の中で女性は6人(40%)。上場企業の平均女性役員比率は10%に満たないことを考えると、極めて高い。社員の80%が女性社員の会社の役員構成らしいと言えばそのとおりだが、福原氏が社長に就いた当時は、20人以上いる取締役のうち、女性役員はわずか1人にすぎなかった。
当時、その点を指摘すると福原氏は、「女性の役員は一人しかいないが、中間管理職は、ものすごく増えている。会社全体としても女性のキャリアや能力を伸ばそうとしている。女性だから管理職ができないという人がいるが、とんでもない間違いだ」と反論している。
資生堂では現在、すべての階層で男女比率を2030年までに50:50に引き上げる方針だ。取締役・監査役でいえば、あと一人、男女が入れ替われば達成できる。その礎は福原氏の時代につくられた。
そして最後に、資生堂のグローバル化にも触れておきたい。資生堂は日本を代表するグローバル企業だ。世界各国に販売拠点を持つだけでなく、アメリカ、ヨーロッパ、中国、東南アジアにも研究拠点があり、日本を含む5極体制を敷いている。
現在会長を務める魚谷雅彦氏は、日本コカ・コーラ社長などを務めたプロ経営者で、2014年に資生堂社長に招かれた。これも、外資系企業で身につけた魚谷氏の国際感覚を経営に落とし込み、グローバル企業としてさらに進化するためだ。
だが、以前は違った。福原氏は学生時代から英語が得意だったが、資生堂に入社した当時、「英語ができても使い途はない」と先輩社員から言われたというエピソードが残っている。
それでも福原氏は、米国子会社の社長を務めるなど、資生堂の国際化を担うようになり、1978年に取締役外国部長に就任する。そしてこの時代、資生堂は大きな決断をする。中国への進出だ。1980年、福原外国部長は訪中し北京市と友好関係を結ぶ。そして翌年、大型商店やホテルで資生堂の化粧品などの販売に踏み切る。
今では中国市場にとって資生堂はなくてはならないものになった。中国が経済成長を遂げ、日中間の人の往来が活発化すると同時に、資生堂の化粧品は日本人が持参するお土産としてナンバーワンの地位を確立する。
中国海南省で開催された第3回中国国際消費者製品博覧会(2023年4月、写真:ロイター/アフロ)
さらにはコロナ前までは日本に来た中国人が資生堂製品を爆買いする光景が各所で見られたものだ。その後コロナにより、資生堂の中国向けビジネスは縮小するが、それでも前12月期決算の中国事業は日本事業を上回り、地域別トップを維持している。その先鞭は福原氏がつけた。
こうして振り返ると、その功績の大きさがわかる。前述のように、福原氏は紳士であり、自分の手腕を誇ることはほとんどなかった。しかし今の資生堂は福原氏が目指した姿と完全に重なる。
訃報でも、メセナへの貢献ばかりを評価する論調が多いが、経営者としても大きな実績を残していることに、改めて気づかされた。
【参考文献】
『月刊経営塾』(1990年6月号)
福原義春氏(1997年撮影、写真:Kaku Kurita//アフロ)
