永谷園のホームページに掲載されている「ぶらぶら社員制度」の漫画。この漫画では「麻婆春雨」のヒントを得るまでの過程が、第1話~第5話の構成で簡潔に紹介されている

●永谷園の強さの理由に迫るシリーズ第1回はこちら

 前回(5回目)、永谷園が1979年に実施した「ぶらぶら社員制度(以下、ぶらぶら社員)」について触れた。さて、今回(6回目)だが、前回の前編に続き、後編として「ぶらぶら社員」のその後と、関連するエピソードや私感などを交えつつ、同社の「変わり続ける」姿勢を紹介したいと思っている。

 また、「ぶらぶら社員」の詳細については、内容が重複するため、今回は割愛させてもらうが、知らない、興味がある、改めて確認したいという方は、前回の記事も併せて読んでもらえればと思う。

突然の辞令、暗中模索で始まった「ぶらぶら社員」の日々

 今から43年前の1979年9月4日、突然、社長室に呼び出されたA氏(※当時、永谷園社員)。そこで、当時の社長(名誉会長 故・永谷嘉男氏/以下、嘉男氏)から投げ掛けられた言葉は、次のようなものだった。

『今後、どのような商品を開発すべきか、そのことだけを考え、考えることに専念してもらいたい。ほかのことは何もしなくていい』

『食べたいもの、読みたい本、行きたいところ、なんでも好きなことをやっていい。レポートもいらないし、出社もしなくたっていい。会社の機能も好きに使ってもらって構わない。拘束は一切なしだ。費用だって惜しむ必要はない』

『2年間、とにかくぶらぶらして、ヒントになりそうなものを考え、ヒントになりそうなものだけを追い掛けてほしい』と、A氏は社長の嘉男氏から告げられる。

「お茶づけ海苔」をはじめ、「松茸の味お吸いもの」「あさげ」「すし太郎」など、名誉会長 故・永谷嘉男氏のアイデアで数多くのロングセラー商品が生まれた。写真は嘉男氏が直筆した「永谷園開発マン心得五ヶ条」になるが、この心得は永谷園の商品開発における指針として現在も脈々と受け継がれている
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 こうしてA氏は前代未聞の「ぶらぶら社員」として、未知への一歩を踏み出すことになった。しかし、『時間も経費も自由。好きなことをやっていい。とにかく今後の商品開発のヒントやアイデアだけを考えろ』と言われても、サラリーマンのA氏の立場になって考えてみると、私を含め、皆さんもそうだろうが、“何から手をつけたらいいのか、どこに行けばいいのか”、きっと困惑したに違いない。

 実際、A氏も「何を食べたらいいのか。何をしたらいいのか。さっぱり分からなかった」というコメントを残している。そんな思いを抱きつつもA氏は行動を始める。まず、会社、組織を把握するという名目で、社内探訪という手近なところからスタートし、辞令から9日目には開発部の試食会に同行する形だったが、記念すべき1食目を東京・有楽町のインド料理店で迎える。

北から南、そして海外へ。当てのないヒントへの道のり

 しかし、こうした試食会にいくら参加しても、会社や部署のシステムに乗った試食会では、到底、組織の網から抜け出すことはできない。そうこうしているうちに、時は過ぎ、季節も冬へと変わり、師走を迎える。それまで都内をウロウロとしていたA氏も、ようやく旅に出る決意を固めるが、そこでも組織人としての習慣が顔をのぞかせる。“会社の旅⇒出張⇒スケジュール”、まさにこれなのだが、意気揚々とスケジュール表を嘉男氏に見せると『ダメだ!スケジュールで動いているようじゃ。もっと気軽に、ぶらっとできるようじゃないと。もっと気楽に、のんびりやりなさい。会社の枠を外しなさい』と、一喝されてしまう。

 そんな嘉男氏の言葉を胸に、A氏は東北・北海道へと北に向かい、美味、珍味を追い掛ける。そして、翌年(1980年)に入ると、今度は南を目指し、交通手段も飛行機や新幹線を選ばず、あえてブルートレイン(寝台特急)を使って鹿児島へと向かう。さらに、そこからは船で奄美・沖縄本島、石垣島、竹富島、西表島を転々とし、本格的な旅をスタートさせる。そして、南の旅から戻ったA氏は週1回のペースで料理学校にも通い始める。和食、洋食、中華、デザートなど、料理全般の基礎を学ぶとともに、主婦の目線、気持ちから開発のヒントを得ようと試みる。

 また、その年の7月には日本から飛び出し、モスクワ、オーストリア、スイス、フランスへ。一度、帰国した後、11月にも北米へと向かい、ロサンゼルス、サンフランシスコ、デンバー、シカゴ、ニューヨーク、アンカレッジへと足を延ばす。海外でも名物料理からファストフードに至るまで、シンボリックな料理を食べ続けたA氏だったが、次の商品開発に向け、“これだ!”というものには、まだ出会えずにいた。