これは地方の小さな「弁当屋」を大手コンビニチェーンに弁当を供給する一大産業に育てた男の物語である。登場人物は仮名だが、ストーリーは事実に基づいている(毎週月曜日連載中)

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平成17~18年:58~59歳

 県と市とが主催する被災者への補償説明会が開催され、恭平は出席し、失望した。

 市は県に責任を転嫁し、県は国に責任を転嫁。ダムの放流は法令に責任転嫁して、誰もが責任の所在を明らかにしようとせず、全員が被害者然とした説明でお茶を濁していた。

 質問時間も設けられてはいたが、短過ぎて質問が時間内には収まらず、担当者は予定時間が過ぎたことを繰り返し告げるばかりで、杳として真剣な応答は為されず、不満と怨嗟の声が渦巻く最中に説明会は打ち切られた。

 企業は自らの力で護らねば誰も助けてはくれぬことを、恭平は改めて痛感した。

 廃墟と化した1階部分の改修工事が始まり、工場に再び生気が戻ってきた。

 生産機器や什器備品の発注が一段落してから、恭平は何年か後にも同じ被災に遭わぬ保証はないと考え、自衛手段を模索し続けた。

 一番の安全策は、工場移転だったが、立地次第では現在の従業員の多くが勤務できなくなる上に、膨大なコストと時間を必要とする。

 次善の策として、工場を下駄履き構造に建て替えることも考えたが、工場を稼働しながらの建て替えは工程的に無理があった。

 辿り着いた結論は、工場全体を防水壁で囲むことだった。

 臨海工事に定評がある七洋建設に相談すると、英断であるとの外交辞令を返された。

 英断か無駄遣いかは、後代の人々が決めてくれることだったが、願わくは無用の長物に終わることを期待しつつも、万が一への備えも必要であると恭平は決断した。

 被災直後の「近隣第一」の欠落に懲りた恭平は、設計図が完成した時点で、地域住民に対して防水壁の建設に関する説明会を開催した。

 100軒余の案内に半数以上の住民が集まり、関心の高さを窺わせた。

 冒頭に恭平が、今回の被災を見舞い、日頃の騒音などの迷惑に加え被災後の不手際を詫び、再び起こるとも知れぬ災害に備え、防水壁の建設を計画した経緯を説明し、同意を求めた。

 続いて七洋建設の担当者が工事の概要を図面を提示しながら説明した。

・防水壁は、地中3メートル、地上2メートルの矢板を打ち、高さ3メートル幅60センチの鉄筋コンクリートで支える仕様とし、工場の騒音対策としても有効である。

・防水壁は、工場の周囲約400メートルを囲い、正面入り口と側面駐車場側に、防水扉を設置する。

 その後、質問を受け付けたが、工事そのものは好意的に受け止められ、工事期間中の関係車両の出入りの安全確保、作業中の騒音対策などへの要望があった。

 やれやれ一段落と思われた頃、大きな声が上がった。