『大日本歴史錦絵』より「川中島大合戦之図」

(乃至 政彦:歴史家)

実に5回以上争われたとされる川中島合戦。第一次から第三次までは、天下や広範囲の政局と関係のない独立した局地戦として完結していたが、第四次合戦は、そうではなかった。第三次の時点で決着済みだった合戦はなぜ再び行われたのか? その理由と意義を考察する。(JBpress)

局地戦ではなかった第四次川中島合戦

 川中島合戦は、現地で5回以上争われたとされている。

 古戦場でこの話をした豊臣秀吉が「ハカのいかぬ戦をしたものよ」と笑ったという。しかし秀吉は川中島の地に入ったことがなく、完全に後世の創作話である。ところがこの話は一人歩きして、「川中島合戦は上杉謙信武田信玄が才能の無駄遣いをした無駄な局地戦だった」という評価が広まってしまった。その延長上にあるのが、「この合戦は、濃霧で視野の効かなかった両軍が、たまたま衝突して勃発した不期遭遇戦である」という異説である。この解釈の根底には、上杉軍も武田軍も本当は決戦を避けたかったのだという主張がある。

 この地で繰り返された合戦が、すべて単なる領土争奪の紛争であったなら、無駄な局地戦というのもわからなくはない。実際、川中島合戦は第一次から第三次までそうした争いであったからだ。天下や広範囲の政局と一切関係のない独立した局地戦として完結していた。しかし第四次合戦は、そうではなかった。

 同年春まで越山して、関東で越相大戦を主導していた謙信が、越後に引き上げ、川中島に現れたのは、これを妨害する武田信玄を討ち取るためであった。大戦初期、信玄は不満分子の粛清に追われて身動きが取れないでいた。だが、政情を落ち着かせると、越後へ出兵して諸将を戦慄させた。謙信は、この事態を看過できず、戦いを中断して帰国を急いだのだった。

 そこで、謙信こと上杉政虎は、川中島で決着をつけるため、大軍を催して出馬を敢行したのである。政虎は、この戦いで信玄を滅ぼし、憂いを絶った上で越山をやり直すつもりでいた。関東には安房の里見義堯や武蔵の太田資正だけでなく、古河に関白近衛前嗣と前関東管領上杉憲政を置いている。かれらのためにも、必ず凱歌をあげて、関東へ戻ってこなければならなかった。