広島県の宮島、厳島神社の夕焼け

 今から紹介するのは、地方の小さな「弁当屋」を大手コンビニチェーンに弁当を供給する一大産業に育てた男の物語である。登場人物は仮名だが、ストーリーは事実に基づいている(毎週月曜日連載予定)。

「その場凌ぎと帳尻合わせ」《昭和33年~令和2年:11歳~73歳》

 本川恭平は73歳の今日まで、恥ずかしいほど好い加減に生きてきた。

 信じられないほどツキだけに頼って生きてきた。

 その報いとして今日があると言えるし、それにしては恵まれた人生とも言える。

 神様が同じ人生をもう一度「繰り返せ」と命じられても、これまでの人生の轍から一歩でも外れたら、地獄を見てしまいそうで怖いから、勘弁して欲しいと懇願するしかない。

 それでも、もう一度人生を「遣り直す」チャンスを与えられたら、迷うことなく小学5年生の二学期から再スタートしたい。

 恭平がチャランポランな人生を歩むきっかけになったのは、小学5年生の夏休みに聞いた父親の自慢話だった。

「お父ちゃんは、子供の頃から勉強をしなかった。勉強はしなかったが、成績はいつも学年で一番だった。勉強して一番になることは、誰だってできる。勉強しなくても一番になれる奴が、本当に偉いんだ!」

 大正3年、鳥取県の山深い田舎の貧しい農家の三男坊として生まれ、旧制中学に進むことが叶わず、海軍兵学校に入り下士官として終戦を迎えた父親の他愛もない屁理屈に、10歳の恭平はいつになく素直に感服した。感服した証しとして、恭平は直ちに実行した。何を実行したかと言うと、勉強しないことを実行した。

 それまでの恭平は、臆病者のくせに負けず嫌いのガキ大将で、案外な優等生だった。

 放課後は日が暮れるまで家の近くの公園やお寺の境内で遊び回り、家に帰って夕食を済ませると律儀に宿題を片付けた後、図書館から借りて来た本を読み耽り、興に乗ると荒唐無稽な物語を夜遅くまで書き綴ったりしていた。書き上げた物語は学校に持って行って先生に見せ、時には給食時間に校内放送で自ら朗読して悦に入っていた。

 5年生になると同時に恭平は、先生から学習委員を仰せつかった。学級委員ではなく、学習委員である。学級委員は学期毎に選挙で選ばれるが、学習委員は年間を通してその任に当たる。その任とは、毎日出される宿題ドリルの「答合わせ」を先生に代わって行う重責である。

 学級委員にも選ばれていた恭平は、二つの重責を独占していることに、秘かな優越感と大いなる自負を持っていた。

 そんな恭平が、父親の自慢話を聞いた二学期から、宿題を放棄して遊び呆け、毎朝の答合わせに臨むようになった。

 毎朝の授業の前に同級生と向き合って教壇に立ち、宿題の答え合わせをする恭平のドリルは、見事に白紙である。白紙のドリルを開いた恭平の手には、長い赤鉛筆と掌に収まるほどの短い鉛筆が握られていた。2本の鉛筆の活用法は、こんな具合である。

「それでは、算数のドリル15ページ1番の答えの判る人はいますか?はい、小山君」

「はい、答えは32です」「いいですか皆さん、32で合っていますか?」「合ってま~す!」

 この「合ってま~す!」の大合唱を聞いてから、恭平はおもむろに短い鉛筆で「32」とドリルに書き込み、直後に長い赤鉛筆で丸をつける。

 つまり、恭平は毎朝教壇で級友と向かい合い、答合わせをしながら宿題をしていたのだ。答えが解ってから解答する恭平の宿題は、当然ながら、いつだって100点満点である。

 しかし、時に困ったことが起きる。