南京事件から81年、香港の日本総領事館前で抗議デモ

日本総領事館が入るビルの前で南京事件に対する抗議デモを行う民間団体のメンバーら。香港にて(2018年12月13日撮影)。(c)ANTHONY WALLACE / AFP〔AFPBB News

 中国は2017年に「南京大虐殺記念館」の10年ぶりの改修を終えリニューアル・オープンした。

 記念館は鄧小平の「愛国主義教育を推進する」という指示の一環として1985年に初めて建設された。

 敗戦直後の南京や東京での裁判でこそ南京事件が取り上げられたが、あり得ない話だということもあってその後はほとんど忘れられていたと言っても過言ではない。

 これを中国の愛国主義教育に結びつける発火点とみられるのが、朝日新聞記者の本多勝一氏による「中国の旅」のルポルタージュ(取材1971年6~7月)で、同年8月から12月まで全40回にわたって同紙に掲載された。

 この旅は中国共産党中央委員会が招待し、「中国各地を引き回し、共産党がお膳立てした『語り部』に日本軍によって受けた『被害』を本多に語らせた」(藤岡信勝「日本虚人列伝『本多勝一』」(『正論』平成30年2月号所収)ものである。

 ルポは満州事変の発端となった柳条湖から始まる。

 本多氏は1960年代後半からベトナムでの取材を始めるが、その際体制側のお膳立てや協力で取材をするようになる。

 こうした取材形式について、本多氏自身が「『取材』ではあり得ない。しいて分類すれば『儀式』に近いだろう。儀式の中では、民衆はホンネを語らぬものだ。タテマエだけを聞いて歩いて、あたかも自由な取材であったかのようなルポを書くわけにはゆかぬ。それではいわゆる〝盲従分子″になるだけであり、ジャーナリストの自殺行為になろう」(『ベトナムはどうなっているのか?』)と述べる。

 「中国の旅」は正しく「自殺行為」を行ったわけで、出だしから混乱がある。