歌舞伎座、そろそろ見納め 13年に高層ビルへ

建て替えられる前の東銀座の歌舞伎座(2010年4月21日撮影)〔AFPBB News

 暮れに、明治時代日本で最初に敷設された鉄道について書きました。新橋―横浜間。なぜこのルートで、当時としては陸上最高速の蒸気機関車の鉄路を敷設したのか、しなければならなかったのか?

 答は「グローバリゼーション」にあります。19世紀のグローバリゼーションを見て、21世紀のイノベーション戦略を検討したいと思います。

なぜ新橋か?

 新橋。誰もが見慣れた名前ですが、改めて「新橋」という文字を見てみると「ニュー・ブリッジ」と書いてあります。

 ニューがあるならオールドがありそうなもの。このあたりは中州や埋立地だらけで、橋は山のようにあり、諸説考えられますが、基本的に「江戸の橋」と言えば「日本橋」を起点に五街道のネットワークが走っていますから、

 「日本橋ではなくニューブリッジ」

 としての新橋と考えると、この先の見通しが良い気がします。この日本橋と新橋の間、東海道の最初の数キロの区間が「銀座」にほかなりません。

 江戸時代から栄えた日本橋、銀座界隈。お城に程近く、繁華な街区が切れる端が「新橋」ないし「汐留」エリアで、そこで留まっている「汐」の先は、浜辺に松が生えていた(浜松町)。つまり、空き地が確保しやすかった。

 新橋―横浜間という鉄道の敷設は、江戸文化、東京の最も優れた商品を、盛り場の外れである新橋エリアで列車に積み込んで、黒船のペリー来航以来開港されていた世界への玄関口、横浜港に運んで輸出する鉄のハイウェイだったわけです。

 当初の江戸城というのは、ほとんど海に面したお城だったようです。内堀、外堀というと、開削した「お堀」のように聞こえますが、そもそもの丸の内、千代田界隈は海辺の田んぼとそれに面した高台を「借景」的にお城に見立てたもので、川や中州を掘りや土塁に見立てて築城していったらしい。

 正確な考証は歴史家に任せるとして、今は内陸のように見える「日比谷」は、元来は深い入り江だったものを、一部は護岸工事をして掘りとし、一部は埋め立ててお堀端の道路にした。

 内堀通りが祝田橋で神田川・日本橋川から流れこんだお堀の水を跨いで霞ヶ関方向に伸びる日比谷通りですが、元はこのあたりが河口でここから先は江戸湾の中洲エリア、細長く伸びた陸地が日本橋から新橋まで続き、その先品川→横浜と東海道が点と線で結ばれて成立した様子です。

最初の私鉄はなぜ高崎線?

 江戸の物品を横浜に運んで輸出すると同時に、横浜に荷揚げされる舶来の文物が、一番最初に運んでこられたのもの新橋でした。

 「青い目をした人形」以前に、衣服とか時計とか、もっと普通の舶来品が、汐留あたりで荷降ろしされ、最初に店頭に並んだのは日本橋・銀座界隈だった。江戸時代以来の繁華街は、明治以降、帝都東京で文明開化の最先端を行くことになります。

 それに先んじて最初に洋物が陸揚げされる横浜が、ハイカラな街として発展するのはことの必然であったでしょう。

 最初に開港された横浜というのは、元から栄えていた現在の東神奈川あたりと帷子川を挟んで反対側の、横っちょにある浜辺に過ぎない「横浜村」と伝えられます。