中国人学生、外国人に「機密情報」売った疑いで逮捕

中国北東部・黒竜江省のハルビンを流れる松花江〔AFPBB News

 70年の月日を経て再びすれ違う2つの列車。

 どこまでも続く単線の満州鉄道を、1つは北を、1つは南を目指して進み、たまさか駅の複線ホームですれ違った昭和20年、秋。

 決して映画などではなく、実際にあった出来事から今年の8月15日、私たちが大学で開いた「哲学熟議」での対話をご紹介したいと思います。

「引揚げ」という始まり

 あれは2008年のことでした。私は8月15日を記念する小さなセミナーを開き、真宗大谷派本龍寺ご住職、本多弘之先生にご出講いただいて「引揚げ」の現実を伺いました。

 本多先生は昭和13(1938)年、北満州の開拓地、弥栄村にお生まれになりました。お父さんが僧侶として満州開拓農村を回るご勤務、「馬賊」の来襲などもある北辺の開拓地「弥栄村」で本多先生は生を受け、幼少期を過ごされました。

 馬賊と言っても元来その一帯で放牧していた人々であって、政治的にその地に作られた「満州国」から追い払われたのです。

 満州国は国籍の法規がなく、最初の入植者は「武装移民」の屯田兵として大陸に入り、人間を見つければ追い出すか殺害するか、という血腥(ちなまぐさ)い殺伐とした空気の中、北の大地が農地として開墾されていました。

 やがて太平洋戦争が開戦し、敗戦を迎え、弥栄村の人々はまたしても政治的な理由で、しかし今度は極めて短時間のうちに内地へ引揚げねばならなくなりました。ほとんど着のみ着のままの格好で1700人からの村人が満鉄の駅に集まり、ほぼ丸一日待たされた末にやって来たのは「無蓋車」だったのです。

 石炭や牛馬などを積んで走る、屋根のない物資輸送用の貨車を牽引する蒸気機関車だったのです。

 当時小学1年生だった本多先生は家族、村民の人々と一緒に無蓋車に乗り込みました。汽車は南を目指して走ります。8月の満州は夏とは言いながら、吹きさらしの貨車に高齢者、女性と子供ばかり1700人詰め込まれた人々にとっては過酷な旅が始まりました。

 1台目の列車は南を向けて走る「復員無蓋車」でした。

 実際には、たった3日間の移動だったそうです。ソ連に見つからぬよう、昼間は森の中に隠れ、主として夜に移動して南を目指しましたが、結局発見されて、弥栄村の人々は強制収容所に捕らわれ身となってしまいました。

 収容所では平時の常識は全く通用しませんでした。些細なことから、日本人がソ連兵に銃底で殴り殺される現場も目の当たりにされたそうです。約3か月の収容期間に、少なからざる人が非業の最期を遂げられた。しかし、それだけではなかったのです。