2011年に福島県南相馬市から脱出した「原発難民」を再訪する報告の4人目を書く。木幡竜一さん(49)は、私が震災直後に南相馬市に入って最初に取材した1人だ(「どこへ行っても、結局地元とは違うんだよ」~「原発難民」になった人たち(その1))。

 山形県米沢市に避難した木幡さんは、物資輸送が絶えて孤立した故郷に食糧や水など支援物資をトラックに積んで運んでいた。私と会ったのも、そうして南相馬市に戻っていた時だった。その話を聞いて、私は国の政策の不条理さに心を痛めた。経営している土木建築会社の事務所と車両・資材置き場が、ちょうど原発から20キロラインの内側にぎりぎりで入ってしまったのだ。官僚が地図の上に引いた線のせいで、自分の会社に入れなくなり、生活の手段も断たれた。その政策の愚かさがずっと忘れられなかった。私は米沢市の小さなビジネスホテルの一室で避難生活を送る木幡さんを訪ねたり、その動向を取材してきた。最初は「山形に移住したい」と言っていた木幡さんも、次第に疲れを見せ始めた。私は東京に戻ってもメールや携帯電話で連絡を取り続けた。小学生の娘さんが学校にうまくなじめなかったことをぽつりぽつりと私に話してくれるようになった。

結局、戻ってくればみんな自然と忘れてしまう

 2013年6月、南相馬市で木幡さんに会ったのは、その経営する土木会社の事務所だった。今までずっと木幡さんから話だけ聞いてきた。その会社を見るのは初めてだった。

 同市の中心部からまっすぐ南にレンタカーを走らせた。2012年4月まで封鎖されていた、信号交差点に近づいた。20キロラインの検問だった。そこはかつて警察が機動隊車両を並べて厳重に封鎖していた。その模様を写真に撮影するだけでも、私は警官に身分証の提示を求められた。横ではマスクをした警官がガイガーカウンターで地表の線量を測っていた。ピリピリした空気が充満していた。

 その交差点に近づいた。ハンドルを握る手に力が入った。

会社の重機の前に立つ木幡さん(筆者撮影)

 しかし、何もなかった。警官も機動隊車両も幻だったかのように消えていた。平凡な田んぼの真ん中の交差点に、さびたジュースの自動販売機が立っているだけだった。あくびが出そうな風景が、あっという間に後ろに消えた。

 木幡さんの会社はそこから5分もかからなかった。丘のふもとにプレハブの事務所があって、丘に重機や鋼鉄の資材が並んでいた。その丘の頂上をちょうど20キロラインが通ったのだ。除染はまったく手つかずである。

 「『帰宅準備区域』っていうの? 封鎖は解除したから出入りはいいけど、まだ宿泊はダメなんだよ」