明治時代から戦後まもなくまでの文学の大きな流れは、大きく2つに分かれると考えると理解しやすくなります。1つは、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治という系譜。もう1つは、森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎という系譜です。これは、日本の文学的「嗜好性」に依るのかもしれませんが、子弟関係ということとも重なってきます。もちろん、優劣をいうものではありません。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

谷崎潤一郎

漱石と鷗外を筆頭とする2つの系譜

 まず、夏目文学の系譜ということについてお話をしたいと思います。

 夏目漱石から流れる系譜は、芥川龍之介、太宰治と繋がって行くものです。すでにこれまでの連載で紹介しましたが、漱石は、芥川に文学の才能を見出しますが、その芥川に憧れて次の流れを作って行くのが太宰治です。

 もう1つの系譜は、今回お話する谷崎潤一郎を生む系譜です。谷崎は、森鷗外の系譜に入れて考えることができると思います。というのは、鷗外から永井荷風へ、永井荷風から谷崎潤一郎へと子弟関係がつながるからです。

 森鷗外はドイツに留学していたこともあって、ヨーロッパ文学にとても詳しい人でした。慶應義塾大学の文学科顧問であった森鷗外は、荷風がアメリカ、フランスに遊学して帰国すると、荷風を慶應義塾大学の文学部教授に迎え、機関紙『三田文学』の編集主幹を任せます。荷風は、教壇に立って、フランス文学、特にゾラや批評を紹介するのです。

 晩年の荷風からは「まじめな大学教授」というイメージはまったくしませんが、荷風の授業について、佐藤春夫はこんなことを語っています。佐藤春夫は、芥川龍之介のライバルでもあった文豪です。

「森鷗外先生の講義はすごく面白かった。しかし、永井荷風先生の雑談はそれ以上に面白かった」

 ところで、佐藤春夫と谷崎潤一郎は、大正6年(1917)年に開かれた芥川龍之介の『羅生門』出版記念会で知り合い、親交を深めていました。

 次回に御紹介しますが、佐藤春夫は谷崎の奥様のことが大好きになり、奥さんを自分に譲ってくれるようにと谷崎に頼んだのです。それがこじれて谷崎と佐藤の関係は、一時絶交状態になるのです。

 結局、佐藤の恋が成就し、谷崎から譲られた女性と佐藤が結ばれると、谷崎と佐藤は晩年までずっと友情を保ち続けます。

 森鷗外、永井荷風、谷崎潤一郎には、日本の文化の裏側というのか、明るく陽の当たるような表側の煌びやかな部分ではなく、それを支える暗くドロドロとしたり、しっとりしたり、眼に見えない部分を好むという傾向がありました。

 これは、「耽美主義」とも言われますが、当時流行していた「自然主義」が、私生活の「暴露本」のような様相になっていくのに対して、荷風は江戸時代の人達が持っていたもっと温かく、涙や笑いの中に漂う情緒の中に、はかない「美」を感じとろうとしていたのでした。この荷風の思いが谷崎の『陰翳礼讃』などの作品となって現れてくるのです。

 太宰治は谷崎より二十三歳ほど年下になりますが、太宰や坂口安吾、葛西善蔵など「無頼派」と呼ばれる文学も後に登場してきます。「無頼派」は、もうどうにでもなれと、酒に溺れたり借金を繰り返したりして、それをそのまま文章にするというところからすれば、島崎藤村の自然主義の系統なのかなぁと思ったりしてしまいます。

 さて、谷崎は「文学」を、人間の官能、五感を動かしていくものなのだと考えていました。谷崎は子どもの頃からとても優秀だったと言われますが、「知力」だけでなく「気力」も「体力」もあります。芥川のように「ぼんやりとした不安」などでは決して死ぬことはない精神力を持っていました。

 それに、谷崎は、貪欲でした。小説だけでなく、映画監督までやるほどですが、探偵小説の草分けだとも言われています。江戸川乱歩を発見したのも谷崎です。インスピレーションやアイディアが無限に湧いてくるだけではなく、それを形にする力を持った作家だったのです。