極東国際軍事裁判。再開された法廷2日目、主要戦犯容疑者に対し判決文を読み上げるウィリアム・ウェブ裁判長(中央)(資料写真、1948年11月5日、写真:近現代PL/アフロ)

(橋本 量則:日本戦略研究フォーラム研究員)

 現在、日英関係はこの100年間で最も良好である。だが、一方で先の大戦中の日本軍が行ったとされる「残虐行為」のため、反日感情を持つ英国人が少なからずいるのも事実だ。

 その日本軍の「残虐行為」としては、捕虜虐待や非戦闘員の殺害が語られることがほとんどである。本稿では、非戦闘員の殺害の例として度々引き合いに出される「アレクサンドラ病院虐殺事件」の謎について述べてみたい。この謎を解くことで日本軍の「残虐行為」がどのように作られていったかを明らかにしたい。

資料がほとんど残っていない奇妙な事件

 この「アレクサンドラ病院虐殺事件」は実に奇妙な事件だ。日本側にも英国側にも資料がほとんど残っていないのである。

 戦後、英軍当局はジュネーブ条約等の国際法に違反した日本軍の「戦争犯罪」を徹底的に捜査、立件したにもかかわらず、英軍が行ったBC級戦犯裁判でこの事件は取り上げられていない(ロンドン郊外の公文書館には英国軍が行った全ての戦犯裁判記録が保管、公開されている)。

 これは一体どういうことであろうか。可能性は2つある。1つは事件そのものがなかった可能性。もう1つは、事件が戦争犯罪に該当しないと判断された可能性である。