誰にでも、人生において大きな分岐点となる出来事があります。そこから人生が拓けることもあれば、残念ながら下降してしまうこともあるでしょう。文豪たちも同じです。この連載では、文豪の人生やその後の作品に大きな影響を及ぼした岐路を紹介しながら、文豪たちの素顔に迫ります。今回は日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成を取り上げます。

文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美) 

川端康成(1961年当時)写真=Burt Glinn/Magnum Photos/アフロ

 土坡(どは)の上に糸薄(いとすすき)を植えた垣(かき)があった。糸薄は桑染色(くわぞめいろ)の花盛りであった。その細い葉が一株ずつ美しく噴水のような形に拡(ひろ)がっていた。

 そうして道端の日向(ひなた)に藁莚(わらむしろ)を敷いて小豆(あずき)を打っているのは葉子だった。

 乾いた豆幹(まめがら)から小豆が小粒の光のように躍り出る。

 手拭(てぬぐい)をかぶっているので島村が見えないのか、葉子は山袴の膝頭(ひざがしら)を開いて小豆を叩きながら、あの悲しいほど澄み通って木魂(こだま)しそうな声で歌っていた。

  蝶々とんぼやきりぎりす
  お山でさえずる
  松虫鈴虫くつわ虫

 杉(すぎ)の樹(き)をつと離れた、夕風のなかの烏(からす)が大きい、という歌があるが、この窓から見下す杉林の前には、今日も蜻蛉(とんぼ)の群が流れている。夕(ゆうべ)が近づくにつれ、彼等(かれら)の遊泳(ゆうえい)はあわただしく速力を早めて来るようだった。

                川端康成『雪国』(新潮文庫)より

 

「日本の美」を書くことが使命と知る

 川端康成の人生の大きな転機はやはりなんといっても、1968年、ノーベル文学賞を授賞したことでしょう。授賞から50年がたった2019年、当時の選考資料が初めて公開され、そこには「日本文学の真の代表者として、彼に賞を与えることは正当である」と書かれていました。しかし受賞の4年後、川端は自殺とも見られる死を遂げます。果たしてノーベル賞受賞は、川端の人生にどう影響したのでしょうか。

 ノーベル賞受賞のきっかけになったのは、1950年代にアメリカ人の日本文学研究家サイデンステッカーやドナルド・キーンの翻訳により、川端文学が広く世界に紹介されたことでした。とくにサイデンステッカーの『雪国』(Snow Country 1956年刊)、『千羽鶴』(Thousand Cranes 1959年刊)の名訳は、受賞に大きく貢献したと思います。

 そしてノーベル賞受賞によって川端が自覚したのは、自分が書かなければいけなかったのは「日本の美」だということでした。受賞した1968年は、日本が敗戦から復興し、高度経済成長の真っ只中です。世の中は急激に豊かで便利になるとともに、急速な工業化で美しい風景が破壊されていく時代でもありました。そんななかで、川端の小説は世界に評価されたのでした。

 ノーベル賞の受賞によって自分がこれまでやってきたこと、そして書かなければいけないことを教えられた川端は、ここから変わっていきます。同時に読者が川端を見る目も一転します。それまで、川端が書いている「純文学」を理解する人はほとんどいなかったのですが、川端が書いているのは「日本の美」が表現されている小説、そして川端康成という作家は日本の美を語った世界も認める最高の文豪、という見方に変わったのでした。