(英フィナンシャル・タイムズ紙 2022年12月8・9日付)

筆者は何年もナショナリズム(国家主義)の台頭について書いてきた。
トランプ、ブレグジット(英国の欧州連合=EU=離脱)、プーチン、ボルソナロその他諸々は、「エリート」だけがまだ気に入っているグローバル化に対する反発だとされてきた。
そこへ今回のサッカーワールドカップ(W杯)があり、誰もが文明の衝突に飛びついた。
西側の人間はカタールの移民労働者と性的少数派LGBT+の扱いに反対した。
アラブ人は我々を偽善的な人種差別主義者と呼んだ。我々は「ワン・ラブ」と書かれたアームバンドをつけたかった。
一部のアラブ人ファンは「フリー・パレスチナ」と書かれたアームバンドを着用した。要するに、ナショナリズムと憎悪と無理解が至るところに渦巻いた。
文明は衝突しなかった
こうした事情のために、実際にW杯のこの大会にいると当惑を覚える。
筆者はドーハ周辺や各地のスタジアムで1日16時間すごし、異なる世界を目の当たりにしている。大まかに言えば、様々な文明は何の問題もなくうまくやっている。
W杯はナショナリズムよりもコスモポリタニズム(世界主義)の祭典だ。
信じ難いほど陳腐だが、正しいのかもしれない国際サッカー連盟(FIFA)のスローガンを引用するなら、「サッカーは世界をつなぐ」。
ここにいる大半のファンは、中東ドバイから南アフリカのダーバンまで世界各地から集まった裕福なサッカー観光客で、往々にして複数のチームを応援している。
だが、ひたすら自国チームだけを応援する少数派の間でさえ、礼譲が保たれている。