藤原頼経によって創建された鎌倉・明王院(写真:PIXTA)

(真山 知幸:偉人研究家)

 鎌倉幕府の4代将軍は誰か。即答できる人はそれほど多くはないだろう。初代将軍の源頼朝が鎌倉幕府を開くと、長男の源頼家が後を継いで、2代将軍となった。頼家が北条氏によって殺害されたことで、弟の源実朝が3代将軍に就く。もともと大きな勢力を誇っていた北条氏は、実朝が暗殺されると、いよいよ幕府の実権を掌握。将軍職は存続したものの、4代将軍の存在が語られることはあまりに少ない。どんな経緯で、実朝の後継者が決まったのだろうか。

実朝の後継者として親王を迎えようとした

 鎌倉幕府3代将軍・源実朝が暗殺されたのは、建保7(1219)年1月27日のこと。実朝には子どもがいないため、4代将軍を誰にするのか幕府は急ぎ対応しなければならなくなった。

 2月13日には、政所執事の二階堂行光が上洛。次のように奏上している。

「後鳥羽院の皇子である雅成親王か頼仁親王のいずれかを鎌倉に迎えたい」

 幕府の要望は既定路線でもあった。というのも、実朝は坊門信清の娘を御台所に迎えたものの、一向に子どもができなかったため、実朝が暗殺される前年の建保6(1218)年から、すでに後継者探しが行われていた。

 しかし、この時点で実朝はまだ27歳である。結婚してから14年が経つとはいえ、子を諦めるにはまだ早い年齢だ。それでも、本人にそのつもりがなかったために、いち早く後継者探しに着手したのだろう。

 鎌倉時代の文献『吾妻鏡』によると、武家の棟梁でありながら、官位上昇を望んだ実朝は、その理由について次のように語った。

「私には子孫をあとに伝えるという望みはないのだから、自分が高官に上って家名を上げるしかない」

 実朝自身が源氏将軍の断絶を望むのであれば、子どもはできないものとして、適任者をほかに探すほかなかった。