連合国軍総司令部(GHQ)が置かれた占領下の第一生命ビル(1950年撮影、写真:近現代PL/アフロ)

(古森 義久:日本戦略研究フォーラム顧問、産経新聞ワシントン駐在客員特派員、麗澤大学特別教授)

 5月3日は憲法記念日だった。1947年(昭和22年)5月3日に日本国憲法が施行されたことを記念する日である。この日の前後は憲法をめぐる論議が一段と高まる。だがこの憲法がアメリカの占領軍によっていかに作られたか、いかに不自然で欠陥に満ちているか、への言及は少ない。

 私には日本国憲法草案作成の実務責任者だったチャールズ・ケーディス氏に直接に会って、その作成の実情を詳しく聞いた体験がある。その憲法案がきわめて異様な状況下に拙速かつ粗雑に書かれ、しかも戦後の日本の独立国家としての基本的な権利をも抑えるという意図だったことを詳細に聞いた。憲法作成のアメリカ側の当事者に直接、話を聞いた日本人はいまやきわめて少ないだろう。憲法記念日を機に、アメリカ側当事者が明かしたその異様さを改めて報告しよう。

GHQの民政局が草案を作成

 日本国憲法はアメリカ占領軍司令部により1946年2月に作成された。その草案はそっくりそのまま日本政府に渡され、国会を経て、日本国憲法となった。当時の日本の占領統治者は「連合国軍」と公式には呼ばれたが、実際には米軍だった。その総司令部(GHQ)も米軍の最高司令官、つまりダグラス・マッカーサー元帥の指揮下にあった。

 GHQは終戦からまだ半年のその時期に急遽、日本の憲法案を作成した。「急遽」というのはマッカーサー司令官は当初、日本の新憲法を日本側に自主的に書かせることを指示していたが、その草案ができあがったのをみて、不満足と断じ、急にアメリカ側が作るという決断を下したからだった。