ロンドン万博を見学する文久遣欧使節の面々(不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

(柳原三佳・ノンフィクション作家)

 連日報道される、ウクライナの惨状。市民の平穏な営みを武力で破壊する前に、なす術はなかったのでしょうか……。このような戦争が現在進行形で起こっているということが、にわかに信じられません。

 次々と映し出される現地の映像を見ながら、私はふと思いました。

『幕末、ロシアを含むヨーロッパ諸国を訪問し、懸命に外交に取り組んだ彼らが、もし、この状況を知ったらなんと言うだろうか……』と。

幕末、米国と欧州を訪れた6名の日本人

 それは今から160年前、明治維新の6年前のことです。日本人として初めて、ロシアを公式訪問したサムライたちがいました。

 外国奉行兼勘定奉行・竹内保徳を正使とする、計36名の「文久遣欧使節団」です(*後日、通訳が2名追加)。

 彼らは幕府の命を受け、1862年1月(*旧暦1861年12月)、イギリス軍艦「オーディン号」に乗り込んで品川を発ち、約1年をかけて、フランス、イギリス、オランダ、プロシア、ロシア、ポルトガルを訪問し、各国の国王に拝謁したのです。

 実は、この使節団のメンバーの中には、本連載の主人公である「開成を作った男・佐野鼎(さのかなえ)」も含まれていました。

 佐野鼎はこの2年前(1860年)、幕府が初めてアメリカに派遣した「万延元年遣米使節団」の一員でもありました。その航海のエピソードは、本連載でもたびたび取り上げてきたとおりです。

 あまり知られていませんが、幕末、「万延元年遣米使節」(1860~61年)と「文久遣欧使節」(1861~62年)に参加し、アメリカとヨーロッパの両方を訪れた希少な経験を持つ日本人は、次の6名のみでした。

 以下、遣欧使節時の年齢と肩書きで紹介します。

・日高圭三郎 (28/勘定役)
・益頭駿次郎 (34?/普請役)
・川崎道民 (31/医師)
・福沢諭吉 (27/通詞)
・佐野鼎 (33/船中賄方)
・佐藤恒蔵 (38/船中賄方)

福沢諭吉以外の5名は、「遣米使節団」として首都のワシントンを訪れていますが、福沢は、護衛の役割を担った「咸臨丸」でサンフランシスコまで渡航し、そのまま日本に引き返しています。