文=鷹橋 忍

歴代執権の北条氏屋敷があった宝戒寺

北条義時とは何者なのか

 北条義時の名は、大河ドラマの主人公となったことで、初めて聞いた方も、少なくないのではないか。まずは、その出自をみてきたい。

 義時は長寛元年(1163)、伊豆国の北条(静岡県伊豆の国市)で誕生した。父親は伊豆の在地武士である北条時政(1138~1215)、母親は、伊豆の有力武士で平家の家人である伊東祐親(すけちか)の娘とみられている。六歳年上の姉・政子は同母姉、宗時(生年不明)は、同母兄といわれる。幼少期の義時を伝えるエピソードはみられない。

 義時の母親が死去すると、時政は駿河国大岡牧(おおおかまき)の預所を務める牧宗親(まきむねちか)の娘(妹とする説あり)「牧の方」を後妻に迎えた。二人の結婚時期は諸説があり、牧の方は政子よりも年下だったともいわれる。

 政子の夫・源頼朝は、義時より16歳年長で、義時が生まれる前から伊豆に配流となっていた。

 頼朝が政子のもとに通うようになったのは、安元二年(1176)3月半ば頃とみられている。この日本の歴史を変えた大恋愛が始まったとき、義時はまだ14歳であった。

 治承4年(1180)8月、義時は義兄の頼朝の挙兵に従い、歴史の舞台に登場する。義時、18歳のときである。

 義時は、父の時政や兄の宗時らとともに平家方の大庭景親の軍勢と、石橋山(神奈川県小田原市)で戦ったが、頼朝軍は大敗を喫して、四散する。義時と時政は頼朝と合流できたが、兄の宗時は敗走中に戦死した。

 前回でも述べたように、その後、頼朝軍は奇跡の復活を遂げ、同年10月に鎌倉入りを果たしている。

 鎌倉に武家政権を樹立し、後世に鎌倉幕府と呼ばれる組織を築き上げた頼朝は、義時をどのように扱っていたのだろうか。