日大闘争は1968年の4月に始まった。発端は理工学部教授による裏口入学の斡旋だ。動いた金は3000万円。それだけではなかった。さらに調べによると大学当局にも22億円という巨額の使途不明金が見つかった。大学のあり方自体が問われる問題だった。学問の場という知的環境が金まみれになっていたのだ。大学上層部がカネ絡みのスキャンダルの張本人だったという点を見れば、今回の田中英壽、井ノ口忠男の事件と何も変わらない。

 違うのは、学生たちの反応だ。

 半世紀ほど前の事件は、それまでノホホンと学生生活を送っていた学生たちの心に怒りの火をつけた。

 68年5月27日、文理、経済、法学部を中心に日大全共闘が結成された。彼らは無気力の殻から“闘う日大生”へと脱け出したのだ。

 理事会の総退陣を求めた学生たちは無期限ストライキに入り、校舎をバリケード封鎖した。連日、無数の学生が集まって集会を開き、大学の建物を取り囲んで要求を突きつける。要求は古田重二良会頭以下全理事の退陣、大学の民主化だ。10年前の日大改善案闘争で学生が処分され古田体制が確立して以来、政治活動は禁止され、サークル活動にも大学当局の手が伸びていた。また、進歩的な考えを持つ教授や講師は解雇されるという環境だった。

 そんな中、使途不明金事件をきっかけにマルクスとは無縁の数万の学生が立ち上がった。それまでバラバラだった各学部の学生が全共闘の結成により連帯したのだ。

泥臭く闘った日大生

 O氏(日大除籍)が当時を振り返る。

「まさか自分がヘルメットを被り、ゲバ棒を持つなんて思いもしなかった。しかし、『今この現実から目を背けたら、これからの人生もきっと敗北者になる』、そんな気がしたんだ。初めはデモの仕方、立て看板の作り方、ビラを書いて刷るなど基本的な事も知らなかった。バリケードの作り方なんかも初めから知っているわけはないけど、見よう見まねで覚えた。でもあのバリケードは凄かったね。コンクリートを流し込んだからね。日大のバリケードは大学闘争史上最高と言われたもんだ」

 別の全共闘OBはこう語る。

「今考えると、あの闘争は自己変革、つまり自分を変える運動でもあったんだな。漠然と自分の前にある未来へのレール、そこに疑問を抱いて葛藤が生まれる。その葛藤の中で自分の感性に忠実でありたいと我々なりに努力したんだ。闘う事でね」

 Y氏はこうも言った。

「日大闘争は正義の戦いだった。しかし親の金で勉強もせずに学生運動をしているという世間の目、学生運動をした者はいい就職にはつけないという世間の声、そいつらに正直言って真綿で首を絞め付けられているような感じもあったね」

 メディアも文化人も国民も日大全共闘に同情的ではあったが、確かに先の事は見えなかった。見ようともしなかった。当時、同じく全学バリケードストライキで揺れる東大と日大はよく並べて論じられたが、政治的スローガンを全面に出す東大に比べて、日大全共闘はもっと人間臭かった。

「何か日大生はやたらと筵旗を振り回す農民一揆のように泥臭かった。それに、人数だけはやたらといた。だから多くの仲間が血を流していたし、『あいつがいないな』と思ったらパクられていたなんてことはザラだった」

2018年6月、日大全共闘結成50周年の際に、千代田区の公園で仲間に呼び掛ける理工学部OB(写真:橋本 昇)
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 1968年9月30日、日大全共闘は両国の日大講堂で古田会頭で出席のもと“大衆団交”を行った。会頭以下理事は学生の要求を受け入れ、念書にサインし退陣を約束した。しかし、古田会頭の盟友でもある、時の総理、佐藤栄作の「あの大衆団交は法秩序を破壊するものだ」という鶴の一声で念書は簡単に反故にされた。やはり時の権力者との癒着の力は大きい。それは現代も同じだ。世の中は何も変わっていないという事なのか。