「苦難の行軍」の頃の金正日総書記(写真:S009/Gamma/AFLO)

 かつて日朝両政府が推進した在日朝鮮人とその家族を対象にした「帰国(北送)事業」。1959年からの25年間で9万3000人以上が「地上の楽園」と喧伝された北朝鮮に渡航したとされる。その多くは極貧と差別に苦しめられた。両親とともに1960年に北朝鮮に渡った脱北医師、李泰炅(イ・テギョン)氏による今回の手記は1998年に起きた黄海製鉄所虐殺事件について。

◎李 泰炅氏の連載はこちら(https://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E6%9D%8E%20%E6%B3%B0%E7%82%85)をご覧ください

 大韓民国に定着して12年になったが、北朝鮮にいた時に松林市に住んでいた縁から、「松林」や「黄海製鉄所」という言葉に敏感だ。

 インターネットで松林市や黄海製鉄所を検索すると、「民主化蜂起」「市民蜂起」「黄海製鉄所労働者暴動事件」「虐殺事件」「北朝鮮版5.18抗争(光州事件)」などの言葉が並ぶ。

 ピサの斜塔は横から見なければ傾いていることが分からないように、見る角度によって異なることがいろいろある。「松林事件」と検索すると、数百、数千人の労働者が虐殺されたという記録が並んでいるが、1998年8月に私が見たものとはだいぶ異なる。

松林製鉄所の民間人虐殺事件とは

 事件を要約すると、金正日総書記の「苦難の行軍」時代、黄海製鉄所の幹部が銑鉄を集め、中国でトウモロコシと交換した。労働者を食べさせるためだった。しかし、党に報告しない秘密裏の行為だったことから、副支配人や販売課長、業務部支配人、生産課長など幹部8人が逮捕され、銃殺された。

「南朝鮮のスパイが入り込んで黄海製鉄所の設備を毀損させた。幹部が韓国のスパイとつながっていた」という名目だった。

 ところが、労働者を食べさせるために努力した幹部の銃殺に労働者が激怒してデモを断行。翌日未明、保衛司令部が戦車と機関砲を動員して労働者を殺戮した。銃の乱射は10分にわたって続いた。戦車の車輪には肉片がつき、腕と脚があちこちに飛び散るなど凄惨な殺戮で、数百人から数千人が死んだという。

 金日成主席の担当看護婦で、故郷の松林に戻って市の病院に勤めていた看護婦も銃殺現場を見て激怒し、マイクを手に「このような無謀な銃殺をなぜ行うのか。自分のためにやったわけでもないのに、死刑にするとはあまりにもひどい」と抗議すると、その場で縛られ銃殺された。その後、銃殺された死体が埋められた盛土に、数百個の花が置かれたという。