鶴岡八幡宮 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(9)8月28日、逃亡をつづけていた頼朝の運命は
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66553

「鎌倉殿の13人」とは?

 4月9日からスタートした、この連載。2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』への〝予習〟のつもりで読んでいる方も多いと思う。今回は、そうした事情も視野に入れつつ、連載の展望みたいな話を少し、書いておこう。

 まず、『鎌倉殿の13人』の「鎌倉殿」とは、われわれが普通、鎌倉幕府将軍と呼んでいる人のこと。つまり、源頼朝や頼家・実朝たちを指す。

 なぜ、将軍ではなく「鎌倉殿」という呼び方をするのかは、この連載の最後となる12月の回で説明しよう。いまここで、くだくだ理屈で述べるより、頼朝が旗挙げした1180年(治承4年)の出来事を、ひととおり追った上で説明した方が、ストンと腑に落ちるからである。

頼朝の御所があったとされる「大蔵幕府旧跡」は鶴岡八幡宮の東隣にある。

 一方の「13人」とは、「十三人の合議制」と呼ばれたグループのメンバーである。1199年(正治元年)に頼朝が死去し、頼家があとを継いだ直後、幕府は武士たちからの訴訟の裁定を、十三人の合議によって行う方針を打ち出した。この13人は、頼朝から頼家への権力移行の時期に、幕府の首脳部を構成したメンバーといってよい。

  実は、ここまでの連載の中で、13人のうち過半数となる7人が、すでに登場している。

第2回(4月27日)~北条時政、北条義時、安達盛長
第3回(6月19日)~三善康信
第7回(8月23日)~梶原景時
第8回(8月26日)~三浦義澄、和田義盛

 といった具合だ。気になる方は、バックナンバーをご参照いただけるとさいわいだ。

 12月までの連載の中で残りの6人も順次、名前が出てくるだろう。すなわち、比企能員(ひきよしかず)、足立遠元(あだちとおもと)、八田知家(はったともいえ)、中原親能(ちかよし)、大江広元、二階堂行政である。大河ドラマの予習として読んでいる方は、この13人がどういう形で頼朝の下に集まって来るのか、チェックしてゆくとよい。

鎌倉の妙本寺は比企能員邸跡に建つ。能員は武蔵の有力武士で、かつて頼朝の乳母を務めた能員の母は、流人の頼朝に仕送りを欠かさなかった。

逃走に成功した頼朝一行は?

 さて、話を1180年(治承4年)に戻そう。8月28日に、土肥実平の手配した舟に乗って海路逃走した頼朝一行は、翌日には安房に上陸した。安房では、衣笠城から脱出してきた三浦一族(義澄・義村・和田義盛)や、甲斐から戻ってきた北条時政と落ち合うことができた。

 とはいえ、再会を喜んでばかりはいられない。ほとんど手ぶらの状態から、再挙を図らなくてはならないのだ。そこで、まずは皆で手分けして、味方になってくれそうな者を当たってみることにした。「平家打倒の挙兵に参加しませんか?」と呼びかけるのだ。

 こんなやり方で、味方が見つかるものか不安になるけれど、案外早く見つかったのである。9月4日には安西景益という武士が、一族や近隣の者数人を連れて、頼朝のもとにやってきた。景益は、若い頃に京で頼朝に仕えていたことがあるという。

   同じ頃、信濃の山中で、頼朝の従兄弟にあたる者が動き出していた。木曽義仲である。9月7日、義仲は平家方の小笠原頼直と戦って敗走させ、反平家の戦いに踏み出した。以仁王のバラ撒いた令旨によって、そこここで反平家の狼煙が上がりつつあった。

木曾義仲像

※次回は9月17日に掲載予定