真鶴の頼朝船出の浜伝承地にて。撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

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鎌倉殿への道(6)8月17日、頼朝、どうにか兵を挙げる!?
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鎌倉殿への道(7)8月23日、叛乱軍壊滅、頼朝の消息は不明
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鎌倉殿への道(8)8月26日 三浦義明、衣笠城にて壮烈な討死
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叛乱軍の首謀者・頼朝はどこか?

 石橋山の合戦で叛乱軍を叩きつぶした大庭景親は、取りあえず勝利の第一報を都の清盛に知らせるとともに、頼朝の捜索に全力を挙げていた。石橋山では、北条の跡取りである宗時や、岡崎義実の息子の佐奈田義忠など多くの者を討ち取った。ただ、叛乱軍そのものは跡形もなく四散したといってよいが、首謀者の頼朝が見つかっていない。

 清盛にしてみれば、そもそも平治の乱で頼朝を生かしたのが間違いの元ということになる。何とかして頼朝を探し出し、首を都に送り届けない限り、納得してはもらえないのが景親の立場だ。そこで、まず石橋山から土肥郷一帯の山狩りを徹底的に行い、さらに立ち回りそうな村や町に人をやって、探させた。よもや、自分の身内に逃亡を見のがした者がいるとは、夢にも思っていない。

 当の頼朝は、土肥実平・北条時政・義時・安達盛長らとともに、ひとしきり山中を逃げ回ったあげくに、箱根神社に身を寄せることとした。参詣の者たちに紛れて境内に入り、懇意の僧侶と落ち合うことができた。参考までに説明しておくと、この時代は神仏習合の社会で、神より仏の方が「格上」とされていたから、神社には寺院が併設されていて、僧侶が全体を管理しているのが普通である。

頼朝一行は、関東武士たちの崇敬を受けてきた箱根神社へ一旦は逃げ込んだ。後に同社は鎌倉幕府の手厚い庇護を受けることとなる。

 ところが、ここも早々に立ち去らざるをえなくなった。景親に通じている他の僧侶が、密かに命を狙っていることがわかって、脱出を余儀なくされたのだ。頼朝は「懸賞首」なのである。伊豆・相模の内に、安住の地はなさそうだ。石橋山に出陣するにあたって、政子や北条の家の者たちは伊豆山神社に避難させてあるのだが、箱根山がこの様子では、伊豆山の方も大丈夫だろうかと心配になる。

伊豆山神社。頼朝らが挙兵した後、政子らはここへ避難していたが、危険が迫ったため土肥遠平らの手引きで潜伏先を転々とすることとなった。

 心配ではあるが、今はどうしようもない。致し方なく、またぞろ実平の手引きで、土肥あたりの山中にまぎれ込む。幸い、討伐軍の兵たちは捜索範囲を広げているらしく、土肥の方は少し手薄になっているようだ。

 ここで、実平と盛長が「佐殿はわれわれで何とか逃がすから」と言って、時政は甲斐へ向かうという相談になった。甲斐源氏の一党に、味方になってもらうよう交渉するためだ。27日の夜になって、実平は「何とか脱出の算段をつけてくる」と言って、頼朝らを隠れ場所に残し、出かけていった。

真鶴半島にある「鵐の窟(しとどのいわや)」伝承地。頼朝一行が潜んだとの伝説のある場所は、湯河原から真鶴一帯に複数箇所ある。

 夜明け近くになって戻ってきた実平は、「手の者に命じて船を用意しました」と言って一行を連れ出した。案内されるままについてゆくと、人家もまばらな浜辺に小舟が二艘、用意してある。これで安房へ渡り、彼の地で再挙を期そうというわけだ。実平は頼朝を気遣って、頼朝や時政の無事を政子らに伝えるべく、嫡男の遠平を伊豆山に遣わしてくれた。

頼朝船出の浜伝承地。実際にこの場所から船出した可能性が高く、地形から見て頼朝は画面中央あたりで乗船したものと推定する。ちなみに冒頭の写真は、乗船推定地点から海を眺めたカット。頼朝も、このアングルで水平線を見ていたはずである。

 ちなみに、この遠平は土肥郷の北にある早川荘(現在の小田原市南部)の荘官に任じていたことから、小早川遠平とも呼ばれていた。実平や遠平が源平合戦で手柄を立てて、平家から没収した山陽地方の所領を与えられ、子孫が移り住んだのが、戦国大名・小早川氏の祖となるのだが、それは先の話。また、この時、船を供出した漁民たちは、子孫代々まで船2艘分の課税を免除されることになるのだが、それもまた先の話。

 治承4年(1180)8月28日の頼朝や実平は、敵に見つからないように逃げのびるのが精一杯。先のことはおろか、三浦の衣笠城が落とされたことすら知らなかったのである。